続・大日本仁志會

西勝造 が創始した西式(西学)を紹介する、正統西式のブログです。

2009年09月

私見西式3

甲田光雄氏の名前が有名になったのは、森永ヒ素ミルク中毒事件の被害者の治療に好成績を上げたニュースからである。森永ヒ素ミルク中毒事件は、昭和30年(1955年)に起こった大きな食品公害の一つである。当時、森永粉乳を飲んだ人工栄養児らが多数発病し、厚生省の発表によると、患者数は1万1000余名にも達し、そのうち130名が亡くなっている。しかし、的確な治療がなく、その後14年たって当時の大阪大学の衛生学教授・丸山博先生が「十四年目の訪問」と名づけられた実態調査を行ったり、15年後の1970年(昭和45年)の裁判中に森永側が原因をミルク中のヒ素化合物と認めたりしたが、被害児を救う決定的な治療法を見出せないまま年を重ねていた。

「患者は、現在も脳性麻痺・知的発達障碍・てんかん・脳波異常・精神疾患等の重複障害に苦しみ、手足の動かない身体をかがめ、皿に注がれたお茶を舐めるように飲むなどの日常を強いられている。また、就職差別や結婚差別を受けたり施設に封じ込められたりした被害者や、ミルクを飲ませた自責の念で今もなお精神的に苦しんでいる被害者の親らも多いといわれている」(ウィキペディアより引用)

昭和47年、甲田氏は大阪大学の衛生学に席を置いており、丸山教授からある時、

「甲田君のところでやっている断食療法で森永ヒ素ミルク中毒の被害児たちを救うことができるかね」と尋ねら れ、
 
「そうですね、やってみないとわかりませんが、いろいろな症状の改善には確かに役立つと思います」
 
「よし、それなら一つやってみてくれるか」
 
このような経過で、被害児たちが甲田医院へ入院した。24名(男子12名、女子12名)の若い青年男女。
これらの被害児たちには多少の差があったが、だいたい次のような症状が出ており、それがいつまでもずっと続いていた。その症状の主なものは、皮膚の色素沈着、皮疹、膿痂疹、頑固な下痢、食欲不振、全身倦怠等々で、中には発熱や嘔吐などで悩んでいるものもいた。
血液検査などでは、貧血、白血球減少、肝腫大などが一般的に認められた。

そこで、これらの被害児たちに甲田医院で行っている西式健康法との併用で断食療法を行った。24名全員が平板の上に寝て半円形の硬い木枕を使い、金魚運動や毛管運動などを日課としてつくり、それにしたがって実行しながら断食に入ってゆくわけである。また温冷浴や裸療法なども、みんな熱心に実行し、その結果、当初丸山教授が期待されていた以上の好成績が上がった。丸山教授はそれらの経過をまとめてレポートをつくり、学会へ発表するようにとすすめ、そうして出来上がったが、甲田の論文第一号「森永『ヒ素ミルク』中毒被害児の健康対策」(第一報)だった。

これは日本衛生学会で発表したものだが、その反響はものすごく、新聞、ラジオ、テレビなどで大きなニュースになり、アメリカでも問題になったほどであった。

私見西式2

昭和25年、西は「西医学宣言」を発表した。
「西医学は今から23年以前、昭和2年(一九二七年)2月世界に発表せられた人類所産最高の文化である」と定義し、西式の公表は人類文化を革命する人類最高の文明を建設する理論構想とその実践方策であり、人類発祥からの歴史の書き換えであることを宣言した。

健康である人間が、健康を維持するための方法として強健術(背腹運動)がある。
健康でない人間が、健康を獲得するための方法として、平床、硬枕、金魚運動、毛管、合掌合蹠がある。
病気にかかっている人を観測すると、次の4つに不正がある。
1、脊柱
2、血液循環
3、神経の左右の働き
4、酸塩基平衡
これを疾病観測の四大原基とよぶ。これを正すものが
平床、硬枕、金魚運動→脊柱
毛管→血液循環
合掌合蹠→神経
強健術→酸塩基平衡
であり、これら平床、硬枕、金魚運動、毛管、合掌合蹠、背腹運動を六大法則という。

西式では人間を定義して「精神と物質、もっと詳しく云って皮膚、栄養、及び四肢とが結合して全体を造り上げている実在者である」(「西医学」昭和30年9月号44頁)としている。

皮膚、栄養、四肢、精神、これを健康の四原則(しげんそく)と名づけており、この4つの要素の不正が病気となり、またこの4つの要素を匡正することによって疾患が治癒せられるのである。4大要素が完全に正常なる状態に維持されて、全身が健康な状態になった時、「一者」となったという。「一者」とは哲学上の用語であるが「完全なる存在」を意味する。この4つのものが一つ一つが一者であり、同時に4つのものが一者として働く。一者が敗れると病気になる。

私見西式1

西式とは、西勝造(明治17年〜昭和34年)が創始した健康法である。
病気や煩いから人を解放する健康の真正の体系で、生活万般の指針となるもので、西式によって産まれ、結婚し、生活することを代々実行するならば、やがて人は120歳を平均寿命とし240歳まで生きることができる健康状態を獲得できるという。
昭和2年10月17日の工学院大学における彼の最初の秩序だった公表以来、国の内外あらゆる階級、職業、老幼男女、はなはだしきに至っては家畜、農作物、果樹などに至るまで西式の原理を応用実践して、極めて顕著なる成績を得ることによって、普遍的真理であることを確証したものである。

西は自己の創始した体系の公表に当たり、釈迦の布教のスタイルをモデルに50年間の公表計画を組んだという。そして、秩序整然と講義を進めていった。
戦前の西式の展開について故・樫尾太郎医博は

『西式健康法発表当時は、背腹運動すなわち当時の「西式強健術」を朝夕実行すれば健康を維持増進できるということであった。ところが、病人はどうしますかということで、平床、硬枕、金魚、毛管をやり、触手療法や指圧などを行って、まず病気を治し、それから強健術をやりなさい、といわれた。指圧は西式からでたのである。ところで、触手で治らぬものは断食をやれということになった。その後、ローブリー(風浴)、温冷浴、風邪足浴法(脚湯)、芥子泥などの補助療法を発表されクリマグ(今のスイマグ)の発表によって、戦前の西式は一段落したのである。』

注)「西医学」昭和45年8月号 ハーバート・M・シェルトン原著「断食は命を救う」の翻訳の訳者注より。

甲田光雄医博は西の死後に活躍した人で、西式の生食療法の一部を特化し、生菜食療法と名付けた甲田療法を考案した。西式甲田療法と呼ばれているがその食事療法は厳格に過ぎる。
 

寂聴の前世

瀬戸内寂聴の説法をTVで聞く機会があった。
女性の悩みに答えていたが、さすが元女流ベストセラー作家、
女の気持ちをよく理解した上で仏法で説法している。

美輪明宏(74)によれば、寂聴、この名はたしか今 東光が付けたものと記憶するが、
彼女の前世は白拍子(しらびょうし)だったという。
白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種で、
それを演ずる芸人も白拍子といった。
男装で舞い踊った遊女である。

長慶天皇(1343〜94)に見初められ側室となった。
この天皇は文学に造詣が深く「源氏物語」の注釈書「仙源抄」を書いている。
彼女が住職となった天台寺で長慶天皇が亡くなっており、
また彼女が俗世にいた頃に源氏物語の現代語訳を書いたのも、
二人の前世の因縁によるものと美輪は言う。

なんともロマンチックな話だ。

一遍

すべてを捨てて漂泊遊行に生きた男・一遍。

時宗の開祖でありながら、その人生は住む家も持たず、寺も修行道場もなく、俗縁の同行者と四天王寺、高野山、熊野などをめぐって、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、決定(けつじょう)往生六十万人」としるした算(ふだ)を配り続け、そして各地の村落や市場などで踊念仏を広め、兵庫和田崎の観音堂で没した。

「没後の事は、葬礼の儀式を整うべからず。野に捨ててケダモノに施すべし。」

死の前には所持していたすべての書籍などを焼捨てた。
そのため、一遍の著作は存在しない。
弟子たちの聞き書きである『播州法語集』『一遍聖絵 』などが残されているだけである。

神奈川県藤沢市の時宗総本山、遊行寺(ゆぎょうじ)の広い境内の一角で、ある日の昼下がり横になって寝たことがある。
3時間ほどで目が覚めたのだが、ぐっすりと心地よく眠れて驚いた。
檀家の墓もある寺という場所なのに、その時には浮遊霊、地縛霊はいなかったのか(笑)。

一遍上人から数えて74世にあたる他阿真円上人だと思うが、
私は南無阿弥陀仏の算(ふだ)を頂き今も持っている。
それはある時、仕事帰りの道に遊行寺があって立ち寄ると「ひろさちや」の講演会があるとのことで、参加したら、続いて上人によるおふだの授与があって、これもご縁だなと思いながら頂いたものである。

ある日、突然、「昔、阿弥陀如来を信仰していた」と思い出した。
これは不思議な感覚だった。私の人生でそのような信仰はなかった。
一遍は鎌倉時代中期の僧だが、その頃に私も生きていたのかも知れない。

「生ぜしもひとりなり、死するも独(ひとり)なり。
 独り生まれて独り死す、生死(しょうじ)の道こそ かなしけれ
 されば人とともに住すれども独りなり 添い果つべき人なきゆえなり」

一遍の悟りは

「となふれば仏も我もなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」

「仏法には、身命を捨てずしては証利(さとりの利益)を得ることなし。是を帰命といふなり。身命を捨てた  る姿は、南無阿弥陀仏是なり」













ハングルは神代文字に似ている 2

その前に、神代文字なるものは存在したのかどうか。

「橋本進吉が『万葉集』等の万葉仮名で記された奈良時代の文献の表記を研究した結果、上代特殊仮名遣と呼ばれる特殊仮名遣を発見した。これにより、奈良時代には濁音節を含めて88音節存在したことが明らかとなっているが、神代文字のほとんどは字母数が平安時代に作られたいろは歌や五十音図と同じである。これは神代文字が平安時代以降に創作されたものであることを示している(ただし近年、上代日本語の母音体系は現代と同じ5母音であったとする学説(上代特殊仮名遣)もあり論争の結論はでていないが、少なくとも上代日本語には中古日本語・現代日本語には用いられない仮名づかいが存在し、神代文字がそれに従っていないのは事実である)。」 (Wikipediaより引用)
このような常識は知っておく必要がある。

ハングルについて古史古伝及び神代文字研究の重鎮、吾郷清彦氏は、プロト・ハングルが存在し、それが韓国でハングルに、更に日本に流れてきてアヒル文字に転作されたのではないかという意見を提示している。なおアヒル草文字はアヒル文字の草書体ではなく、全く別のフィリッピン古字であるとしている。

さて、世界各地の古代遺跡を訪ねては神代文字を探し、次々と発見しては解読する作業を続けてきた日本探検協会の高橋良典という人物がいる。
彼の講演会に1度行った事があるが、印象は物静かな男だった。
彼は1992年、カピラバストゥの城跡から出土した金貨の表面にアヒルクサ文字で「かむやゐ」と刻まれているのを発見したという。
カピラバストゥは釈迦が生まれ育った場所で、候補地が2ヵ所あるのだがネパール領の方と思われる。
「かむやゐ」は「古事記」に神武天皇の息子の名で「神八井」とあるのがそれだと大胆に断じている。
ネパール人と日本人は見分けがつかない位よく似ていることから興味深いのだが、ある霊能力者からは、神武天皇の霊は身長2m位の金髪だったと聞いている。
今回はここまでだー。

余生

余生を楽しむには、生への執着と死の不安を捨て去る必要がある。そのために宗教がある。

仏教には廃れて久しい禁戒「肉食妻帯」がある。
この「にくじきさいたい」をネットで調べていたのだが

「曹洞宗の僧侶です。何をもって「原典の教義」と言うかはわかりませんが、釈迦在世当時の戒律を伝えるパーリ戒経は肉食を禁じていません。いつ頃から、どういう事情で肉食が禁じられたかについては、細かい議論があるようですが、大まかに言って、中国に伝わり道教の影響を受けてからと考えていいのではないでしょうか。
それでも一切の肉食を禁じているのではなく、「自ら殺したもの」「自らのために殺されたもの」「自らのために殺された疑いのあるもの」の三種の不浄肉でなければ食べられる、とするものもあります。植物の生命を断つ事は当然殺生戒にあたります。そこで、パーリ戒経では草木を伐採したり土を掘る事は禁じられています。
蛇足ながら、肉食妻帯を太政官布告によって規制緩和された日本のみのケースと思っている方が多いのですが、実際には各国の仏教徒も肉食していたり、妻帯していたりというケースはそれほど珍しくはありません。
インターネットで各国の仏教事情を検索すると、わりと簡単に調べることができます。」

という書き込みを見つけた。

「六道輪廻」という生命観を考えれば、人は牛や馬などの動物にも生まれ変わる。よって彼らを喰らうことは父母兄弟友人を食すに等しい。また過去生で親兄弟姉妹夫婦であった者は今生でも出会い一緒になることが多いという流行りの霊能力者の説を採用するならば、近親相姦を犯すことになる。
人の魂が輪廻転生し、父母兄弟姉妹を犯しまくりながら、磨かれていくとは、なんと人とはおぞましい存在であるか。
霊能力者から自分の夫や妻が前世で父母や兄弟であったと言われ、それを嬉々として受け入れる精神の未熟さが霊的な方面に関心を持つ人に共通するようだ。

しかし、古代エジプトでは王族の近親結婚は当たり前だった。王が先王の妻、つまり自分の母親と先王の死後結婚するようなことも古代の社会ではあったから、そのように考える必要は無いのかもしれない。

生まれる前からの約束

ある夜、寝ていて、意識が変性状態になって目が覚めた。

天井から1枚の紙がヒラヒラと舞いながら落ちてきた。
ポロライド写真のように紙に映像が浮かんできた。
人の姿のようだ。
がばっと体を起こし、正座してひれ伏し
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
と叫ぶように口から言葉が飛び出した。

意識が通常状態に戻って、土下座から体を起こし、
何だったんだ?
と訝りながら、もう一度横になって寝た。

この話を聞いた霊感のある女性が呆れながら言った。
「生まれてくる前に神様と3つの約束をしていながら、それを果たしていない」

「フン!謝るのが早すぎた。映像がはっきりして、相手が誰か分かってから謝っても良かったはずだ。いきなり 土下座なんて面白くないぜ。」

数年後、すっかりこの事件を忘れていたのに思い出した。
ある神社で、由緒を読んでいると
「空から1枚の絵が降ってきて、それが御神体として祭られている」
あれ?どこかで聞いたような話だ・・と。

約束・・そんなものがあったかどうかは知らない。



如意輪観音の寺にて

梵名チンターマニチャクラは、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一尊に数えられる。三昧耶形は如意宝珠、紅蓮華。種子(種字)はキリーク(hriiH)。

ふーん、そうなのか。先日、海老名市で仕事があった。
現場に向かう途中に大谷観音堂があった。如意輪観音が祭られていた。 この観音堂、戦前から戦後にかけて「下大谷の観音様」と呼ばれ、安産祈願に近郷近在から多くの人が訪れたらしい。この観音堂は長い間無住で、地域の方々が守ってきたが、10年位前に小林義功師が来られ、地元の世話人さんや支援者の方々と共にさまざまな活動をされているという。私が訪ねた時、小林住職がおられ気安く声をかけて下さった。簡単に世間話をして私は仕事の現場に向かったのだが、このように明るい方と向かい合うと、自分の暗さに気づく。私の心の闇は限りなく暗い。

ネットで調べると、「小林師は若い時に自分の進む道に疑問を持ち、得度、出家し、臨済宗祥福僧堂、真言宗鹿児島最福寺、高野山専修学院などで修行を積み、2年間の全国行脚を経て、大谷観音堂に来られました。「臨済録」の著書や「禅と念仏」誌上に「無門関」を掲載しているほか、NHKの教育テレビやラジオの「心の時代」に出演されました。」

そういう方だったのか。私のように中途半端に生きてきた者には語れる経歴も無く、人に気軽に話しかけることも話しかけられることも無い。人は生まれてくる前に、神と人生のテーマを約束してくるという。私はどのようなテーマを持って生まれてきたのかな、さて、さてさて。







私の前世2

不思議な夢だった。

向かい合って座る列車の座席
向かいの席の若い男の顔に記憶は無い
夢で人の顔をはっきりと見ることは少ないのに
彼の顔がはっきりと分かる。

直感で列車は北へ向かっていると知る
北?
何処へ?
この男を知っている
誰だ?

意味が分からない夢だった。

数日後、本屋でたまたま手にした本をめくると、
その男の写真があった。
新撰組副長 土方歳三

高校生の時、修学旅行で函館・札幌へ行った。
五稜郭を見下ろす展望台の観光説明版に、幕末に散った蝦夷(えぞ)共和国の夢が書かれていた。
(惜しかったな・・蝦夷共和国の独立・・)
という想いは、単なる歴史への感傷ではなかったのかもしれない。

歴史的事実では、土方歳三は列車で移動していない。
戦う地がある限りどこまでも戦うと、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて大江丸に乗船し、榎本武揚らと共に仙台折浜を出航、蝦夷地に渡った。
当時の交通手段は船だ。

榎本武揚と仲の良かった黒田清隆が前世の男と一時期、私は親密に交際していた。
「袖すりあうも他生の縁」と仏教では言う。
他生とは前世と来世の意味で、人の出会いは生まれる前からのめぐり合わせによるものだという。
この教えによるならば私は前世で北海道で戦っていたのかもしれない。

数年前、お盆の時期に偶然だが出先の近くに土方歳三の墓があることを知り、
小雨降る中を墓参りをしたのは他生の縁による引き合わせだったかもしれない。
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