続・大日本仁志會

西勝造 が創始した西式(西学)を紹介する、正統西式のブログです。

2010年06月

私見西式33

ベニヤ板の平床に裸体で薄い物をかけて寝るのが理想であるが、ここで裸体とは全裸でないことに注意を要する。
西式では「夜寝る時には局部をかくさなければいけない。無闇に放り出し、ぶらぶらさせているのは人間だけである。他の動物では 云々」。「早老とか性力の劣等になる人は、包まずにブラブラ投げっ放しにして寝るからである。(中略)これは婦人方でも同様で、出しっ放しは矢張り老衰する。下帯でしまって置かれたい」。では何を穿くのか、西は改良褌を考案している。(後日詳細を書く予定)

私見西式32

「私の強健術は三百六十二種類の健康術を研究したものでございまして、(中略)生理的に心理学的に研究しまして科学的に一つ一つ吟味して、さうして之を綜合いたしましたものが私の強健術であります。」
これは昭和2年12月10日(土)午後6時20分から行われた、東京工業会での講演速記の一部である。
362種類の健康術の例としては、カイロプラクティック、オステオパシー、スポンディロテラピー、ナチュラパシー、ラディカルテクニック、クリスチャンサイエンス、岡田式、自彊術、藤田式、江間式、石井氏の生気療法、坂本氏の屈伸道を挙げている。
この講演速記が「工業ト社会」(東京工業会出版部)第30巻第2号の付録として発行され、翌3年に単行本になった。どちらも表題は「西式強健術」である。
だが西は昭和2年10月17日の工学院大学における講演を以って西式の公表と言っている。その講演速記が「西式強健術」として出版されたと。もう1冊の「西式強健術」があるのだろうか?今後の研究課題だ。

西は公表と発表を区別して使用している。発表は大正時代である。後日この部分を補筆し書き改める。
西はいろんな機会に西式を発表している。米国留学の帰途の船中ではガリ版刷りの印刷物を配ったようだ。
民間療法でも使われる「里芋湿布」を西が発表したのは明治時代である。西の後に発表された「里芋湿布」は食塩が入っていないが、それでは効果が半減する。西式の「里芋湿布」とは異なることに注意を要する。

西は最初、西式を権田直助が復興を試みた日本医学の継承発展完成されたものとして発表したかったが、海外の文献をあげて説いたほうが良いだろうというアドバイスを入れて、海外文献を使用して説いていた。
しかし西式は東洋の哲学を根幹として生まれたものである。西は古今東西123名の思想家、哲学者の哲理を研究し、東洋では24名を挙げ 「以上は時代の順序で並べたが、結局私の説かんとすることは、これより申し上げる二十四名の東洋の哲学者のもので、これ等の哲学より西式は颯爽として出来たのである。今後かういうような意味合いで申し上げたいと思っている。結局一番偉いものは何処へ行ったか。老子の無為の哲学を最高とし、之が真空哲学になる。(中略)老子の無の哲学即ち真空哲学が分かれば、又病気しないことになる」(西式医術 第41号 昭和13年)

そして西はこの123名の思想・哲学を引っくるめると、「七福神」に要約されると説いた。
西の七福神の解釈は稿を改めるが、例えば恵美須天は清廉寡欲(清廉)で、人は先ず寡欲でなければならぬ。欲一点張りではいけない、等と説いており、一般的な解釈とは少し違っている。

私見西式31

「私は九州で、炭鉱の鉱長をしていた時分、落盤などで死んだ人の体の一部をことわって持って帰って研究したものであります。パッと落盤して鉱夫が死ぬと、すぐに病院の外科の医者を連れて来て、「君、ちょっとあの腸の中を開いて見て。遺族が来れば、鉱長から了解を得るから」と言って腸の中を見る。そうすると健康な人の腸には葡萄のような球がくつついている。「恐ろしいものだなァ」。それから、その球を切り取って見ると、中に砂が入っている。ところが、病気を長く患っている人にはこんなものはない。また、口の綺麗な人にもありません。無茶食いをする人ほど、多く持っている。時々病気をしたり、頭がふらふらしたりする人には、皆んなくつついています。これをメッケル氏の憩室と申しまして、中にあるのは宿便です。この球をなくするには、断食療法をする以外には取れません。」

昭和24年4月16日 明大講座 「西医学の成り立ち」 「西医学」第13巻第2号17頁 図あり


私見西式30

西勝造の著書一覧を作成した。数十頁の小冊子も多いのだが、総数で100冊を少し超えている。
年度別に並べたが、これを更に月別に並べ直したいのだが、今のところは作業の予定が立たない。
また、講座として発刊された2点については煩を避け、年度を無視してまとめて掲載した。
なお書名が西の著書中にあって、その発行が確認できないものもあり、これは別記とした。
今のところ発行が確認できず、ガリ版刷りではないかと思われる「吃音読本」なるものもあり、すべてが網羅できたかどうか不明だが、調査を続けて完璧を期したい。また別に西が出版を予定したが、そのままになった十数冊の本については、書かれる予定だった内容が分かっているので、これらは別途まとめている。(後日UPする)

「先生は吃音矯正の吃音読本というのを書いている位である。アイウエオを一音ずつあらゆる角度から、ものを一日中いわせ、一週間位してはなおしてしまう」(「西勝造伝」坤巻61頁)
書かれた時期は大正時代らしい。ある日西は市長の伊沢多喜男から呼ばれ、吃音矯正など余計なことに手を出すなと叱られた。どうやら彼の兄の息子が吃音矯正に取り組んでいたが、西が吃音矯正を指導し始めてから、自分のところの会員が退会するので、市長に泣きついたらしい。伊沢多喜男の市長在任は大正15年7月16日〜10月23日である。

私見西式29

病気の治療を行うにあたっては、先に診断が必要である。
西式では問診すらせずに、対面するだけで、時には電話で声を聞くだけで、病状を把握し、その原因を明らかにし、治療法を教える。それが西勝造が行った「体貌観測」であった。どのように行うのか、彼の講演での話や彼の講義を受けた指導者たちが遺してくれた本が数冊ある。 このテーマを後日取り上げる予定。

「史記」の扁鵲伝に曰く。
「越人の方をなすや(医者として診察し治療すること)、脈を切することを待たずして、顔色、皮膚の色を見、声を聴き、形を写して病のある所を云う」
これが神医・扁鵲(へんじゃく)の、そして西式の体貌観測である。

扁鵲は、司馬遷の『史記』「扁鵲倉公列伝」に「扁鵲は渤海郡、鄭の人。姓は秦、名は越人という」とあるが、他の説もある。また『史記』の記述通りなら、彼は300年近く生きていたことになる。江戸時代の浅井図南(あざい となん)などは「一個人ではなく、複数人からなる、ある特定の学派だったのではないか」という説を立てている。



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