続・大日本仁志會

西勝造 が創始した西式(西学)を紹介する、正統西式のブログです。

2012年01月

近時雑事

お知らせ

しばらくブログの更新を☆GOODNIGHT☆(;д;)します。
体調不良を、理性は断食を勧めますが、本能がこれを拒みます。
断食すればそのまま即身仏になりそうな気もします(笑)。
100日ほど経って混濁した意識で
「わしは太陽から来たんじゃ。太陽には御三体の神さまがいてのう・・だからわしは、太陽の光と地球の水があれば生きていけるんじゃ」
とうそぶいたりしたら可愛くないし、しばらくの間、書くことも読むことも休んで休養を取りたいと考えています。
ご縁がありました方々、また、お会いしましょう。

おまけ  

「火星人は二十万年も三十万年(も)前に火星を捨てて、ほかの星へ逃げて行ってしまったのです。ただ、彼等はあまり利口でなかったと見えて、土星に行ったのやら、木星に行ったのやら、太陽から遠ざかる死の世界へと皆んな行ってしまった。われわれの将来は、太陽に向かってこそ、われわれ人類の開拓があるという考え方であります。将来は、金星に木材を繁茂させて、それを切り出して地球へ運んで来る。それをやるのはこれから三代か五代あとの人にやってもらうのもけっこうですが、やはりできればこの眼でそういうことを見届けて死にたいものであります。
(略)」

「西医学」第20巻第5号 昭和32年

太陽のまなざしは、地上のすべての存在に向けられている。
生食は生の野菜を食べることだが、葉の部分は太陽の光のエネルギーを、地下の部分は地球の大地のミネラルを摂る方法である。神が光であるとか、私たちの本質は光であると言う人は多いが(私は肯定も否定もしないが)、生の野菜もまた光であることに気づかねばならない。生食は太陽の光線エネルギーで病気を治す方法で、
神道の「十言(とこと)のかじり」は太陽の神霊エネルギーを受ける方法である。

私見西式168

「実は昨夜も原稿を書いておりますと、二時ですよと言われたので、「ああ、もう二時か、まだ十二時ごろかと思っていた。それなら寝よう」といって寝たのですが、そういうときには、たとえ一分間でもいいから最後に一切を忘れて集中的に文章を書くのです。つまりその仕事に熱中して、その仕事を一にしてしまう。すると此方(こちら)の肉体―自分というものを零(ぜろ)にしてしまうのです。これを零れいにしたときに、初めて疲労から解脱することができるのであります。元来、零(ぜろ)のものが病気をする筈(はず)がない、無いものは無い。これはひとつ今晩からでもお寝みになるときにやってごらんなさい。
それは何でもいいのです。
一番いいのは、御自分で持っていらっしゃる書物なら書物を三行でも五行でもいいから、最後に夢中になって読むのです。
皆様は今まで本を夢中になってお読みになったことがあるでしょうか。特に西式の本はめったにお読みにならないでしょうが、とにかく何でもいい、熱心に読んでお寝みになってごらんなさい。疲労はすっかりとれて参ります。」

私見ではやはり、寝る前には10分間の左右揺身(強健術)を行うのが一番良い。
良くなる、能くなる、善くなる と念じながら、繰り返し唱えていると、気がつくと2,30分経っている。
この技を知っていたから、若い頃は2,3日眠らなくても平気だった。


「西医学」第13巻第10号 昭和26年

私見西式167

「これは面白いことですが、十二月の冬至の日から、二月の三日の節分までの間に、私は幸福だと思った人は、その一年は幸福なんですよ。・・・よろしいですか、私は幸福だと思ったら、その一年は幸福なんです。反対に、自分は何だか殺されそうだと思えば殺されてしまう。また何だか泥棒が入りそうだと思えば、泥棒が入って来る。とにかく、思った通りになる。だからその間は、一年のうちで一番大切な月なのです。」

「とにかく二月三日までに、今年こそは大いに儲けようと思えば、そう思われるのです。そして、儲けたらこれを世の困っている人に寄付をする。こういう頭を、持たれることが必要であります。」

私が小学生の頃には、書き初めの風習があった。
1月2日に習字をやる行事で、新年の目標や抱負などを半紙に書いて、家の神棚に奉納し、神社のとんど焼きの日に持っていって燃やしたものだ。西の教えを知り、意味があったんだなと・・・・。

「西医学」第13巻第5号 昭和25年 

私見西式166

「それから左右揺身のときあるいは、就寝のときなどに、ヨクナル、ヨクナル、ヨクナルと口誦することは、ご承知の通りである。このヨクナルも前表に照らし合わせてみると、

ヨ・・あまる
ク・・はやい
ナ・・そのもの、自分
ル・・動く、自然に従う、

ヨは、あまる。クは、はやい。ヨクと連語にすると、よく決心した、よく辛抱したのヨクになり、このときには、決心した意味をもつようになり、ナは、そのもの、自分。ルは、動く、自然に従う、であるために、ヨクナルと続けると自分は自然に従う決心をした、自然(カミ)のルールを守る決心をしたという強い意味の言葉になるのである。

諸賢も考えて見られよ、自然のルール、掟に叛く心行をしたために、病気になったのであるから、今後は自然の掟に従う決心をした、と唱えていれば条件反射的に人間は、時を経るに従い、その通りの気分になっていくことは、フランスの心理学者のリンドラー博士の言にまつまでもない。
どうか諸君、言霊学上よりみれば如上のごとき意味があることを今日以降、西式人(否、全人類と私は希望する)は西先生に対し、また先生の唱えられたヨクナル思想に対し、徒(あだ)や疎(おろそ)かにせず、深い敬意と理解との念を払って、西式を遵奉して暮らしていただきたいものである。」

「西医学」第34巻第2号 昭和46年 

以前、私はヨクナルの他に余計な言葉を付け加える必要はない、と書いたが、その真意がここにあるのを汲み取って頂きたい。
最後に、住吉の神様は古来、言霊の神として知られ、歌人や文人がお参りする。戦前、最盛期には信者800万人を擁した巨大宗教団体「大本」の出口王仁三郎は、綾部における布教活動に行き詰まっていた時、住吉大社に参拝し、白髪の老人に化身して現れた住吉の神に励まされている。このように住吉の神は時折現人神(あらひとがみ)となって世の中に顕現することで知られていた。能でもよく出てくる。

私見西式165

なにげなく、ひょいと手にした旧い「西医学」誌に、土本重医博の「言霊学上よりみたる西医学」の記事が載っていた。1月3日の「雑」において、「西式の医者に「言霊」で西の名前を解釈した人がいた。資料が見つかれば其のことを」とは書いておいたが、西式を行えばこのようなことは当たり前に起きる。

「その(注 神代文字)一部を私は本日の聴講者のかたがたに示してみることにする。ただし残念ながら、本資料の提供者であるところの、皇祖皇太神宮の竹内義宮長官のご意思によって、これを本誌に公表することができないことを遺憾とするし、西先生も既に本文字をごらんになっていられることをここに謹んで申し上げておく。」

東大医学部卒の、広島におられたこの医博は、西より古記録の研究の大切さを示唆されたという。
土本重は「なはしろ 音源・語源学」なる表を示し、西勝造を解釈して

ニ・・丸い
シ・・使命
カ・・変わる
ツ・・集まる
ソ・・もと
ウ・・うまれる

「円い、すべてを含んで円満にするために、あらゆる変化する具象を集めて、宇宙精神(もと)に、かなった健康法を産み出す使命をもった人という意味になり、西勝造というのは偶然に生まれて、偶然に西式健康法を編みだしたというようなものではけっしてなくて、この世界の創造主であるところの神仏が西勝造という覚者を、この世に送って西式健康法というものを人類に知らしめんとせられた、この慈悲の心を私どもは十分にくみとって、あらためて西先生を見直していただきたいと、私は心より叫びたい。」

続けて、良くなる、能くなる、善くなる のヨクナルを言霊解釈している。
次回「私見西式166」へ続く。

生活が修行そのもの

最近、また「女行者」という検索ワードでの、このブログへのアクセスが増えてきた。
男か女か知らないが、修行を求めているのだろうかね。

このブログを覗いて求める記事もなく、立ち去っているのか、それとも他に何か気に入るものがあって常連さんになる人もいるのか知るすべはないが、私は女行者について書いていない。
1ヶ所だけ家田荘子を女行者と書いたが、それだけだ。
深夜の海で、たった一人で行をする、なんて、
私には出来ない。
やったことはあるが、二度とゴメンだ。
ピシャっと浪の音がするたびに心臓ドキドキだ。
なっ何ぃ、サメ?
足に流れてきた海藻がからみつく、
ぎゃー
悲鳴をあげて砂浜へ逃げ帰る。
ふん、どうせおいらは、小心者で臆病で女にモテルいい男
と、思考が乱れて「行」どころでない。
昔から「行者の末路は行き倒れ」といわれている。
好奇心で入っていく世界ではない。

神変不思議の求法に、深山幽谷に入峰し、修行を重ねる日々よりも、
恋をして、デートを楽しみ、結婚して、子供を産み育てる
立派にやり遂げれば、立派な行だ
子供が転んで泣いた
「痛いの 痛いの 飛んでいけ チチンプイプイ」
呪文を唱え、立派に行者だよ

男なら、会社で、社会で出世していく
人の顔したキツネかタヌキか区別のつかない品性下劣な人間が社会にはいっぱいいる
何が憑いているのか迷惑な人間もいる
そんな汚濁の人混みの海を泳ぎ抜き、
一業に達し位をなせば 立派な行だ

西式が、本物の修行だと気づいたならば、立ち寄って良かったね、と。





 

今生きている時間を大切に

「影が薄い」という用語がある。集団の中にいてもその存在が目立たない、印象が弱い、という意味ともう一つ、
何となく元気がなく、命が短いようにみえることをいう。
「街で見かけたんだけど、影が薄いように思えて、声をかけられなかった。何もなければいいんだけどね」というような会話をしていたら、その人が亡くなったという話が伝わってきて、「あぁ、やっぱりね」というような会話が昔はよく聞かれた。

私はこういう時に写真を撮ると、体(の一部)が透けて写るのではと思う。いわゆる心霊写真で、霊能力者という肩書きの詐欺師は、事故とか怪我へのご先祖様(守護霊)からの警告とかいう。
なんでも次元が上昇し人は半霊半物質の存在となる、そうお告げがある、その事は何々に書かれている、とか巷での噂があるらしい。何々は最初の部分は清々しくて、やがて禍々しくなる、
最初は素敵な男性と思い、付き合ってるうちに本性が見えてきたけど、もう別れられない、世の中によくある話だ。いつまでも騙されているバカな女もいるが。

その人の運気が低下しているときにそのような写真がとれることがある。光の具合でそのように写ることもあるし、珍しいものではない。もう昨年から写真で透けて写る人が増えている、次元上昇が近づいている証拠とか、まあ何を信じようと自由だが、異教を信じて火あぶりにされる時代ではないが、科学的なものを常識化する知恵が必要だ。

バリ島は旅行会社のパンフレットでは「神々の島」だが、
バリ・ヒンズー教のあの土地は「神々と悪霊たちの島」だ。
ここで私は得体のしれないものが写る写真を数枚撮った。
帰国後、某神道家に会って、その写真を見せた。
手に取りじっーと見た後、「気持ち悪いですね」とだけ一言いって、ポイとテーブルの上に投げ捨てた。
そして対談中、一切その話題に触れなかった。私も忘れていた。
この時わたしは、「気持ちがいい」か「気持ちが悪い」かという基準での判断方法があること、判断力を磨くこと、審美眼を持つこと、自分の基準を高めること、その必要があることを悟った。
それ以前からもそうだったが、海外へ行った時は必ず美術館で長い時間を過ごした。がらにもなく芸術に親しんでいるうちに、TVのなんとか鑑定団という番組に出品される古美術品を、画面を通してだが本物、偽物の区別が高い確率で、当てることが出来るようになった。

「気づけ」ば簡単なことだった。自然界でも住居でも、美しいところには神気が、汚い乱雑な場所には邪気が集まってくる。
「断・捨・離」だとかこ難しいことを言わず、当たり前のこととして、部屋を整理整頓し、掃除を怠らなければ運気はグーンとアップする。

美しいものには神が宿る・・・はず、だが・・・美しい女でも内面夜叉、邪悪なる心の持ち主がいるのはなんでやねん、そうか、神に正神と邪神がいるようなものか。

2012年は昨年から強くなっている邪神の教えが「目覚め」「気づいた」人たちを襲う。

邪神の生贄になることなかれ。
本当に目覚め、本当に気づく
本当に目覚めて!本当に気づいて!
私たちは大自然と共に生き、何も所有する必要は無い。
必要なのは愛だけ。
山にも海にも生命が溢れているこの惑星
人も動物も植物も魚も細菌も
共に生きている
ファミリーなんだよ

そうだ龍神もいた。
この惑星で生まれた龍神や
他の惑星からやって来た龍神

人の一生は短い
あっという間に過ぎ去る
時を惜しんで 人の十倍努力しよう
怪しげな教えに惑わされることなく
今生きている時間を大切に



私見西式164

「人が何事かにいよいよ一生懸命になったときには、必ず自分を忘れ切っている。それがすなわち無なのです。またそのときには必ず何かをしている。それを一とする。
この無と一とをはっきりすることが、頗(すこぶ)る簡単な健康法なのです。そして、いつも申し上げますように仏教でもプロチノスでも、つまり1=0という哲学の一と零とを握ることが健康法の真髄であり、また真に哲学をお握りなさる鍵なのであります。」

「しからば人間が自分の身体と精神とを忘れ切ったときに、あとに人間として何が残るかというと、実は何も残らない。つまり無なのです。」

「人は道を歩いているときでも。人にものを言うときでも、いわゆる無でなければならない。このときこそ、自分は罪もない、悪もない、病もない、負担もない、借金もない、貸金もない、時間もない、場所もない、ただ一方は人間の先端に立ち、一方は無限の一端に立つものである。そうしてただ成り行きに委せば宜しいのだ。実にこの位に呑気なことはない、愉快ではありませんか。
無は人間と人間の務めとの境界であるだけではない。人間とすべての人間にあらざるもの、たとえば神とか、自然、霊などのものとの境界であります。ゆえに人間は無を境界として、人間と人間にあらざるものとの両方面に発達し、有限と無限との両方面に延長すべきものであります。この意味にいて、無は人間の完成した本場であります。」


「だから「無の観法」によって、あなた方の体が一秒無の観念ができればそれだけ長命する。一日、無の観念ができれば一日長命ができる。つまり列子の「湯問第五」の所の殷の湯王が夏革(かきょく)に問うところに
「無則無極 有則有盡」(無には極限がない。有は盡きてしまう)と答える。西勝造の身体は常住不断、朝から晩まで忘れられている。
又、忘れるべき工夫をつんでいる。「無」になれるよう「仕事」に熱中する。そして私の身体はとっくの昔になくなっている。幅のない、厚みのない面になっている、厚みのないように縮んでいるのであります。厚みのない面は無であります。無では病気をしようにも病気になれない。」

「すでに自分が無になれば、その人は重点を必ず他に移し、自分を捨て、報恩、感謝、犠牲、奉仕というように人のため、世のために盡(つく)す心ができて来るのであります。」

弛緩態勢四十分行のやり方

弛緩態勢四十分行

「神経痛、リューマチも治り、癌も溶けて了う」。
これを行えば、ある能力が開発されるのだが、それについては後日述べよう。

緊張を解き
完全な弛緩(しかん)の状態に入るもので、
無念、夢想、無我、夢中、絶対不動のまま
四十分続けるのである。
座っても、寝転んでも、どんな位置でもよいが、
鼻の頭に羽がひっついて
飛ぶか飛ばぬかの程度の呼吸にする。
少しでも動けば駄目であり、
五分でも十分でも出来るだけ実行し、
四十分に至るように練習する。
目をつぶってやった方がよいが、
眠って了つてはいけない。

「西医学原理実践宝典」より無断転載

私は寝る前の時間に練習した。
そのまま眠ってしまっていたが
次第に、時間をかけて、少しづつ、出来るようになっていった。
正直、これはむつかしい行だ。

後日、追記します。

修学旅行の思ひで

高校生の頃の話。

修学旅行が北海道だった。
札幌のジンギスカン牧場で、
羊を見て「かわいいー」と騒いだ後、隣接する食堂でジンギスカン料理を「美味しいね」と食べる女たち・・・
私は食べられなかった。帰ってからも肉が食べられなくなった。そしてベジテリアンになった。しかしその期間は短かった。
動物と野菜、どちらも地球の生命体、生命に差などない。
玄米は生きているって?。
その生命を奪って恥じない玄米食論者。
生命を受け継ぐって?。
地球を汚し、動物、植物の多くを絶滅させてきた人類が口にできるセリフ?。
まだ10代だったので、思考は過激だった。

人は他の生命を奪わなければ生命を養えない。
この現実の課題に聖人たちは、どう対処した。
釈迦は、イエスは、マホメットは、孔子は、????
誰か一人でも肉食を禁じた?

日本人は欧米人に比べて腸が長いって?
誰が研究したの?
医学文献はあるの?

体内の酵素は一生の間に生産される量が決まっている。
だから、ローフード、低温料理。
世界中の医学文献をひっくり返し探しても、確認されていない妄説。
最近は提唱者たち、巧みに口にしなくなった。
いまだに言っているのは素人の健康情報マニア。

白い花が予知ならば、
酒を飲みながら
各地を放浪する旅に出たい

狼でありたいと夢見た 青春時代
ただ遠吠えするだけの いま

やり残したことはないか
「私見西式」だ。

私の持つ蔵書、そっくり渡し、
研究してもらうための道標として
書き始めたもの。

まだ書き足りない
それまで旅は おあずけだ 
わん!

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