七子はナナシとお読みすればよろしいのかな。
>人間は 自然と乖離することで
>自然を理解しようと努めたのでしょうか
>動物や昆虫は自然そのものであるから
>体の仕組みを知る必要も無くまた
>自然のめぐりを科学する必要も無く
>大雨も カラカラ天気も 即対応して
>いや 対応ではなく それそのもの まるごと
>なのでしょうか
>春になったからとて お正月さまを里に
>迎えなくても 春は春 それがなにか
>と いうことなのかなあ
>動物たちには 神様は いらない
>とりたてて 神様といわなくとも
>彼らそのものが 神であり 自然なのかなあ
>今週土曜日 お宮で春神さまを お迎えする
>のです 人間の私はこのように思いました
生も死も考えないで、無心に只今に生きる
「今・ここにいる・私」を無にする
自然界の動物は、その境地に近い世界で生きているのではないでしょうか。
私はユキを観察していて、そのように思います。
生も死も考えないで、無心に只今に生きていますよ、彼女は。
人間には、「今・ここにいる・私」を無にする工夫が必要で、
古来、求道者は深山幽谷に入り、滝に打たれ、断食して、瞑想しました。
自分は無い、無いと思っている自分も無い、そのように思っている自分も無い ∞
だがなかなか悟れない
中を求め、無を得て、空に至る
中を求め、空を得て、無に至る
どちらでもいいです。
中を求めることから始まります。
中を求めないと先へ勧めません。
>大雨も カラカラ天気も 即対応して
>いや 対応ではなく それそのもの まるごと
>なのでしょうか
>春になったからとて お正月さまを里に
>迎えなくても 春は春 それがなにか
>と いうことなのかなあ
人間は先の見通しがつかないから、悩んだり、災害に遭いますが、自然界の動物は山火事や洪水が起こる前に予知して逃げます。これは対応、別段考えるわけではなく自然な対応行動でしょう。
>動物や昆虫は自然そのものであるから
>体の仕組みを知る必要も無くまた
「西式を研究する人へ 3」で書いたように、
・・まだ書いていなかった(^^;
西医学の研究法には六つの段階が有り、その(2)は形而下的なものの研究であり、解剖学、組織学、レントゲン学、薬理学、物理学、化学等の研究で、指導者には必要ですが、治療を受ける側にはそんな知識は不要です。内蔵各器官の機能や、ホルモンがどうの、免疫機能がどうの、遺伝子がどうのこうの、それは知る必要がありません。
「患者に帯または紐などの窮屈な束縛なきよう注意し、手は両側に置かしめ、何事もあえて考えないよう、また身体の何れの部分にも力を入れないように、身体の平常を保たしめ、幾分眠りたいような気分にする。術者は患者の体のなるべく左側に座り、或は立ち、患者との応接には真摯(しんし)、敬虔、清浄の心を持ち、即ち霊肉一体、心身一如の境地において接し、次の順序により治病操作を行うべきものである云々」(十六操作法の説明部分より引用)
「何事もあえて考えないよう」「幾分眠りたいような気分にする」
患者が無の世界に入ることができれば、十六操作法も不要で、良くなるという暗示だけで病気は癒える。
これは私が理解した西式で、「私見西式」です。
>動物たちには 神様は いらない
>とりたてて 神様といわなくとも
>彼らそのものが 神であり 自然なのかなあ
西の考えは、「人が神をつくり、神が人をつくった」、です。
私は犬や猫が手を合わせて祈っている姿を見たことがありません。彼等は神をつくらなかった、だから祈るべき神もいない。
>今週土曜日 お宮で春神さまを お迎えするのです
古来からの行事を大切にすることも、自然と共に生きることだと思います。
自然が豊かで、人々が自然と共に生きていた時代の名ごりですから。
>人間は 自然と乖離することで
>自然を理解しようと努めたのでしょうか
>動物や昆虫は自然そのものであるから
>体の仕組みを知る必要も無くまた
>自然のめぐりを科学する必要も無く
>大雨も カラカラ天気も 即対応して
>いや 対応ではなく それそのもの まるごと
>なのでしょうか
>春になったからとて お正月さまを里に
>迎えなくても 春は春 それがなにか
>と いうことなのかなあ
>動物たちには 神様は いらない
>とりたてて 神様といわなくとも
>彼らそのものが 神であり 自然なのかなあ
>今週土曜日 お宮で春神さまを お迎えする
>のです 人間の私はこのように思いました
生も死も考えないで、無心に只今に生きる
「今・ここにいる・私」を無にする
自然界の動物は、その境地に近い世界で生きているのではないでしょうか。
私はユキを観察していて、そのように思います。
生も死も考えないで、無心に只今に生きていますよ、彼女は。
人間には、「今・ここにいる・私」を無にする工夫が必要で、
古来、求道者は深山幽谷に入り、滝に打たれ、断食して、瞑想しました。
自分は無い、無いと思っている自分も無い、そのように思っている自分も無い ∞
だがなかなか悟れない
中を求め、無を得て、空に至る
中を求め、空を得て、無に至る
どちらでもいいです。
中を求めることから始まります。
中を求めないと先へ勧めません。
>大雨も カラカラ天気も 即対応して
>いや 対応ではなく それそのもの まるごと
>なのでしょうか
>春になったからとて お正月さまを里に
>迎えなくても 春は春 それがなにか
>と いうことなのかなあ
人間は先の見通しがつかないから、悩んだり、災害に遭いますが、自然界の動物は山火事や洪水が起こる前に予知して逃げます。これは対応、別段考えるわけではなく自然な対応行動でしょう。
>動物や昆虫は自然そのものであるから
>体の仕組みを知る必要も無くまた
「西式を研究する人へ 3」で書いたように、
・・まだ書いていなかった(^^;
西医学の研究法には六つの段階が有り、その(2)は形而下的なものの研究であり、解剖学、組織学、レントゲン学、薬理学、物理学、化学等の研究で、指導者には必要ですが、治療を受ける側にはそんな知識は不要です。内蔵各器官の機能や、ホルモンがどうの、免疫機能がどうの、遺伝子がどうのこうの、それは知る必要がありません。
「患者に帯または紐などの窮屈な束縛なきよう注意し、手は両側に置かしめ、何事もあえて考えないよう、また身体の何れの部分にも力を入れないように、身体の平常を保たしめ、幾分眠りたいような気分にする。術者は患者の体のなるべく左側に座り、或は立ち、患者との応接には真摯(しんし)、敬虔、清浄の心を持ち、即ち霊肉一体、心身一如の境地において接し、次の順序により治病操作を行うべきものである云々」(十六操作法の説明部分より引用)
「何事もあえて考えないよう」「幾分眠りたいような気分にする」
患者が無の世界に入ることができれば、十六操作法も不要で、良くなるという暗示だけで病気は癒える。
これは私が理解した西式で、「私見西式」です。
>動物たちには 神様は いらない
>とりたてて 神様といわなくとも
>彼らそのものが 神であり 自然なのかなあ
西の考えは、「人が神をつくり、神が人をつくった」、です。
私は犬や猫が手を合わせて祈っている姿を見たことがありません。彼等は神をつくらなかった、だから祈るべき神もいない。
>今週土曜日 お宮で春神さまを お迎えするのです
古来からの行事を大切にすることも、自然と共に生きることだと思います。
自然が豊かで、人々が自然と共に生きていた時代の名ごりですから。