樫尾太郎医博は、敗戦が近づいた頃は北海道札幌陸軍病院付で病人の治療にあたり、また教育隊兼務で陸軍看護婦の教育を2期務め、産科の講義も行い、桜が散ってリンゴの花が咲く遅い北海道の春の道を通って、北大へ産科実習にも連れて行った。
この時期の病人治療のエピソードは別の機会に譲ろう。
敗戦後、樫尾は大尉に昇進し、召集解除になって帰郷した。
新聞のトップ記事に、「北海道はソ連、本州はアメリカ、九州は中国、四国はイギリスに分割占領される」と載ったのを読んで、一時はがっかりした。
郷里の奈良(*樫尾は東北出身の資料があり、妻の郷里の可能性がある)にしばらくいた後、「医学の研究を続け、開業医にはならぬ」との初志を貫くべく、母校の東大に戻った。ぐるりは全て焼け野原で、付属病院への外来患者も少なかった。教室には復員してきた医局員が手持ち無沙汰でゴロゴロしており、入院患者の付き添いは病室の廊下に七輪を運び入れて炊事をしているという有様であった。
昭和20年2月22日、西の薦めた女性と結婚。
長男が生まれ、西に名前をつけてもらった。
開業していたが生活は苦しく、配給の砂糖を売って玄米を買い、それを粉にひいて重湯を作り、子供に飲ませていた。樫尾は農家へ往診した時に米をもらって帰り、あとは大根の葉っぱを生でかじっていた。一部の売国奴たちは例外だが、一般国民は誰もが生活に追われていた。
昭和22年には東京地方裁判所の山口判事が、政府による正当な食糧配当だけで生活し、闇で食料を調達しなかった為、栄養失調で死亡した。
樫尾の病院へも客が少なく、やっていけないのを、西が関西へ講演でやってきた時、会員が家族や知人の病気について相談し、「先生、往診をお願いできませんか」とお伺いを立てると、「私は時間がないから、樫尾君に行ってもらいなさい」と樫尾を紹介し、それで何とか一息つける状態だった。
日本政府は円を凍結し、新円を発行して通貨の大規模な調節を試みたが、物価上昇を食い止めることは出来なかった。例えば昭和22年2月には都電の切符は50銭だったのに、9月には2円と4倍になった。米国はドッジ経済顧問を派遣し、ドッジ旋風として恐れられた強硬策によってインフレは一応収まった。
この旧円封鎖がなければ、西医科大学が出来ていた。
「当時、西先生は上海で商売をやっていた人の財産を日本に引き上げるよう忠告されて、損を免れたという実業家から三百万円を贈られた。今(注:昭和年57年)の金で百五十億円ぐらいになろう。その金で威張って居られる敬老院、海水研究所、医科大学の三つを造るというのが西先生の構想であった。しかし、それもインフレと旧円封鎖のために計画倒れに終わった。当時は戦中に林立した臨時医専を医大に昇格することが急務であり、どこかの医専を買収することを先生は考えておられたようだが、西医科大学は日の目を見ることができなかった。」
(続く)
この時期の病人治療のエピソードは別の機会に譲ろう。
敗戦後、樫尾は大尉に昇進し、召集解除になって帰郷した。
新聞のトップ記事に、「北海道はソ連、本州はアメリカ、九州は中国、四国はイギリスに分割占領される」と載ったのを読んで、一時はがっかりした。
郷里の奈良(*樫尾は東北出身の資料があり、妻の郷里の可能性がある)にしばらくいた後、「医学の研究を続け、開業医にはならぬ」との初志を貫くべく、母校の東大に戻った。ぐるりは全て焼け野原で、付属病院への外来患者も少なかった。教室には復員してきた医局員が手持ち無沙汰でゴロゴロしており、入院患者の付き添いは病室の廊下に七輪を運び入れて炊事をしているという有様であった。
昭和20年2月22日、西の薦めた女性と結婚。
長男が生まれ、西に名前をつけてもらった。
開業していたが生活は苦しく、配給の砂糖を売って玄米を買い、それを粉にひいて重湯を作り、子供に飲ませていた。樫尾は農家へ往診した時に米をもらって帰り、あとは大根の葉っぱを生でかじっていた。一部の売国奴たちは例外だが、一般国民は誰もが生活に追われていた。
昭和22年には東京地方裁判所の山口判事が、政府による正当な食糧配当だけで生活し、闇で食料を調達しなかった為、栄養失調で死亡した。
樫尾の病院へも客が少なく、やっていけないのを、西が関西へ講演でやってきた時、会員が家族や知人の病気について相談し、「先生、往診をお願いできませんか」とお伺いを立てると、「私は時間がないから、樫尾君に行ってもらいなさい」と樫尾を紹介し、それで何とか一息つける状態だった。
日本政府は円を凍結し、新円を発行して通貨の大規模な調節を試みたが、物価上昇を食い止めることは出来なかった。例えば昭和22年2月には都電の切符は50銭だったのに、9月には2円と4倍になった。米国はドッジ経済顧問を派遣し、ドッジ旋風として恐れられた強硬策によってインフレは一応収まった。
この旧円封鎖がなければ、西医科大学が出来ていた。
「当時、西先生は上海で商売をやっていた人の財産を日本に引き上げるよう忠告されて、損を免れたという実業家から三百万円を贈られた。今(注:昭和年57年)の金で百五十億円ぐらいになろう。その金で威張って居られる敬老院、海水研究所、医科大学の三つを造るというのが西先生の構想であった。しかし、それもインフレと旧円封鎖のために計画倒れに終わった。当時は戦中に林立した臨時医専を医大に昇格することが急務であり、どこかの医専を買収することを先生は考えておられたようだが、西医科大学は日の目を見ることができなかった。」
(続く)