竹内文献(天津教文書)では、超古代から歴代のスミラミコト(注、スメラミコトではない)は山上に風葬し、数年の後にその骨を集めて粉にし、これに凝固性のものを加えて、神体神骨像なるものを作り、神代文字で名前を刻み、皇祖皇大神宮の御神体として祭祀していたという。
皇祖皇大神宮の神体神骨の中から、1体が伊勢神宮の内宮に、1体が外宮に移されて祭祀されている。これが伊勢神宮の内宮、外宮の由来である、と竹内巨麿は皇祖皇大神宮の参観者に説明していた。
これでは伊勢神宮よりも皇祖皇大神宮の方が尊いということになるから、「伊勢神宮に対する不敬罪」として告発されるのは当然である。
『裁判の公判に入り、当時の伊勢神宮の儀式課長 野上正篤氏が証人として喚問された。その中で「神鏡神玉とは別に一体の御神体があるが、(明治天皇の)封印がしてあり、吾々は開封することができない。」と、述べたのであった。』(「万葉ホロン善循環シリーズ9 地球文化史9」平成8年)
天津教の「神代の萬國史」では神倭朝第十代崇神天皇の欄に、
『御間城入彦五十瓊殖天皇即位3年3月3日、「皇祖皇太神宮」の御神寶のうち天皇御神骨像石御神体の四十八体のうちより、一体を宮中に、他の一体を丹後の「元伊勢」に、密かに観請せられた。 後に、宮中の物は、大和笠縫の村に移して祭祀された。』 とあり、さらに『この御神骨石像神体は、「天疎日向津比売天皇」の御神骨石であって、天皇は上代の日本の中興の祖であられるので、この時より「天照大神」と称へるようになった。』 と由来が書かれている。
そして、第十一代垂仁天皇の欄に、
『活目入彦五十狭芽天皇即位二十五年、大和笠縫村に鎮座した「天疎日向津比売天皇」の御神骨石像神体を、「倭姫命」に命じ、伊勢五十鈴川上流にお祭りした。伊勢太神宮の内宮にして、「天照皇太神宮」と申し上げる。』
神体神骨は資料により48体、また76体、78体ともいうのは奇妙なことだ。
古代天皇は風葬というが、竹内家の口伝ではイザナミは琵琶湖に水葬されている。
皇祖皇大神宮の神体神骨の中から、1体が伊勢神宮の内宮に、1体が外宮に移されて祭祀されている。これが伊勢神宮の内宮、外宮の由来である、と竹内巨麿は皇祖皇大神宮の参観者に説明していた。
これでは伊勢神宮よりも皇祖皇大神宮の方が尊いということになるから、「伊勢神宮に対する不敬罪」として告発されるのは当然である。
『裁判の公判に入り、当時の伊勢神宮の儀式課長 野上正篤氏が証人として喚問された。その中で「神鏡神玉とは別に一体の御神体があるが、(明治天皇の)封印がしてあり、吾々は開封することができない。」と、述べたのであった。』(「万葉ホロン善循環シリーズ9 地球文化史9」平成8年)
天津教の「神代の萬國史」では神倭朝第十代崇神天皇の欄に、
『御間城入彦五十瓊殖天皇即位3年3月3日、「皇祖皇太神宮」の御神寶のうち天皇御神骨像石御神体の四十八体のうちより、一体を宮中に、他の一体を丹後の「元伊勢」に、密かに観請せられた。 後に、宮中の物は、大和笠縫の村に移して祭祀された。』 とあり、さらに『この御神骨石像神体は、「天疎日向津比売天皇」の御神骨石であって、天皇は上代の日本の中興の祖であられるので、この時より「天照大神」と称へるようになった。』 と由来が書かれている。
そして、第十一代垂仁天皇の欄に、
『活目入彦五十狭芽天皇即位二十五年、大和笠縫村に鎮座した「天疎日向津比売天皇」の御神骨石像神体を、「倭姫命」に命じ、伊勢五十鈴川上流にお祭りした。伊勢太神宮の内宮にして、「天照皇太神宮」と申し上げる。』
神体神骨は資料により48体、また76体、78体ともいうのは奇妙なことだ。
古代天皇は風葬というが、竹内家の口伝ではイザナミは琵琶湖に水葬されている。