続・大日本仁志會

西勝造 が創始した西式(西学)を紹介する、正統西式のブログです。

2016年06月

竹内文献の最大の謎

竹内文献(天津教文書)では、超古代から歴代のスミラミコト(注、スメラミコトではない)は山上に風葬し、数年の後にその骨を集めて粉にし、これに凝固性のものを加えて、神体神骨像なるものを作り、神代文字で名前を刻み、皇祖皇大神宮の御神体として祭祀していたという。

皇祖皇大神宮の神体神骨の中から、1体が伊勢神宮の内宮に、1体が外宮に移されて祭祀されている。これが伊勢神宮の内宮、外宮の由来である、と竹内巨麿は皇祖皇大神宮の参観者に説明していた。

これでは伊勢神宮よりも皇祖皇大神宮の方が尊いということになるから、「伊勢神宮に対する不敬罪」として告発されるのは当然である。

『裁判の公判に入り、当時の伊勢神宮の儀式課長 野上正篤氏が証人として喚問された。その中で「神鏡神玉とは別に一体の御神体があるが、(明治天皇の)封印がしてあり、吾々は開封することができない。」と、述べたのであった。』(「万葉ホロン善循環シリーズ9 地球文化史9」平成8年)

天津教の「神代の萬國史」では神倭朝第十代崇神天皇の欄に、

『御間城入彦五十瓊殖天皇即位3年3月3日、「皇祖皇太神宮」の御神寶のうち天皇御神骨像石御神体の四十八体のうちより、一体を宮中に、他の一体を丹後の「元伊勢」に、密かに観請せられた。 後に、宮中の物は、大和笠縫の村に移して祭祀された。』 とあり、さらに『この御神骨石像神体は、「天疎日向津比売天皇」の御神骨石であって、天皇は上代の日本の中興の祖であられるので、この時より「天照大神」と称へるようになった。』 と由来が書かれている。

そして、第十一代垂仁天皇の欄に、
『活目入彦五十狭芽天皇即位二十五年、大和笠縫村に鎮座した「天疎日向津比売天皇」の御神骨石像神体を、「倭姫命」に命じ、伊勢五十鈴川上流にお祭りした。伊勢太神宮の内宮にして、「天照皇太神宮」と申し上げる。』

神体神骨は資料により48体、また76体、78体ともいうのは奇妙なことだ。

古代天皇は風葬というが、竹内家の口伝ではイザナミは琵琶湖に水葬されている。

竹内家の口伝とは

茨城の皇祖皇大神宮の竹内文献(天津教文書)と武内宿禰の子孫の竹内家の口伝との違いは多くある。
竹内家の口伝は現在の武内宿禰第73世によって文章化され、正統竹内文書と名づけられている。

正統竹内文書では、茨城の竹内文献(天津教文書)にあるような超太古の昔から日本の天皇が万国を巡航する飛行機を持ち、世界を統治していたというSF小説のような歴史は存在せず、またウガヤフキアエズ朝という73代続いた王朝も存在しない。
メソポタミア地方にスメル文明を開いたスメル族が祖国日本列島に帰還し、原住民を征服して大和朝廷を成立させた。スメルのみことがスメラミコトである。

皇統の代数は竹内家の口伝の方が多い。
天津教文書が歴代に入れていない振魂(ふるむすび)命、万魂(よろずむすび)命を歴代に数え、また天津教文章には見当たらない津速魂(つはやむすび)命も歴代に数える。

他に天津教文書では面足(おもたる)朝と惶根(かしこね)朝を別々の王朝としているが、竹内家の口伝では夫婦として一つの王朝にしている。

決定的な違いは天津教文章では、ウガヤフキアエズ朝が73代続いたことになっているが、竹内家の口伝ではその存在を認めず、ウガヤフキアエズは彦火火出見王朝に入っている。
彦火火出見王朝の第6代がウガヤフキアエズで、第7代が五瀬(いつせ)尊、第8代がサノ尊(後の神武天皇)である。

竹内家の口伝では、宮中で日本を神聖で悠久の歴史を持つ国とするために歴史の捏造が行われ、採用されなかった案として、天皇家が征服した王朝(部族国家)の王たちを皇統に混ぜて皇統を引き伸ばしてはどうかというのがあった。この案が民間に漏れ、古史古伝のウガヤ朝史となったとしている。

竹内文献とは

竹内文献というのは、昭和3年に茨城の天津教教祖の竹内巨麿が先祖伝来の神宝として公開した文書、剣、鏡、壷などの総称である。特高が彼を取り調べた時の調書を見ると、彼の出自や彼が先祖伝来と称した神具の製造を依頼した相手の名前も明らかになっている。この特高調書の重要と思われる部分については別の機会に取り上げる。

竹内巨麿は酷い拷問を受けて作成されたものだと言っているが、特高調書には福島県磐城郡平町の鋳物師工藤源吉に二度にわたって神具の製造を注文したというような具体的な内容が書かれている。

今回は、思想月報 第93号 昭和17年4月発行より引用する。

「被告人は、富山県婦負郡神明村において農業に従事していたが、明治26年に志を立てて上京したが、間もなく病気になりそれを治癒祈願するために御嶽教に入信し、その頃、東京市神田区錦町御嶽教本庁において同教管長鴻雪爪に師事して神道を学び、中教正なる教職を授けられ、明治32年4月頃、茨城県下に入り御嶽教の布教に従事していたところ、明治33年5月頃、皇祖皇太神を祭神とする天津教(はじめは、天都教と称し、後に天津教と改めた)なるものを創設し、明治44年以来、茨城県多賀郡磯原町大字磯原835番地に定住し皇祖皇太神宮を建立してもっぱらその布教につとめてきたが」

また、
「被告人に対する第7回予審尋問調書中、同人の供述として、「皇祖皇太神宮のもっとも大切な御神宝に神代神系図の巻がある。これは、上古の天皇が臣下に御下命した神代文字により御編纂された上古の皇統譜および歴史であり、御親署のうえ、皇祖皇太神宮に奉納されたものであるが、私は、祖父よりその神代神系図の巻6本(昭和11年に押収した第42号の1049, 1053, 1061, 1062-1, 1063-1, 10634-1に該当する)を譲り受けた。私は、神代神系図巻が神代文字によって記載した上様の御系図であることをそふより聞いていたが、譲り受けた当時は、これを読むことはできるはずもなく、何が記載されいたかはわからなかったが、鴻管長の一覧を受けて初めて神代神系図の巻であることがわかった。」

一方、武内宿禰の子孫の竹内家が現存し、竹内12家には先祖より様々な口伝が秘密裏に継承されており、各家は口伝を分担しておりすべてを知りえるのは世襲の武内宿禰のみという。現在の武内宿禰は第73世で、彼によれば、竹内家に伝わる口伝と神宝が、ある事情で外部に流出したのが竹内巨麿の公表した竹内文献であるという。さらに巨麿は竹内家の墓守をしていた家に養子に入った人間だという。

竹内文献(天津教文書)には近代都市名など明らかに追加された捏造と思われる部分があり、全体としてはまるでSF小説のような内容になっている。ウガヤフキアエズ朝73代の存在は竹内家の口伝になく、とにかく竹内文献(天津教文書)の成立過程には深い謎がある。

それはさておき、茨城の竹内文献(天津教文書)のイエス渡来説について述べる。
竹内巨麿に教導されていた山根菊子は「光は東方より」を昭和12年に書いた。
これは発禁処分となりほとんど回収されたのだが、私は回収をまぬがれた原本を所有している。
この本の内容はサブ・タイトルの「史實 キリスト、釈迦、モーゼ、モセスは日本に來住し、日本で死んでいる」の通りの内容である。

山根菊子はこの本の中でイエスの遺言書の一部を紹介している。この遺言書なるものは、イエスが作ったイスキリス文字で書かれており、「此処では之を日本字に直したままの原文を記する事とする。天国秋津根神倭十一代活目入彦五十狭茅天皇即位三十三年、四月二十五日、戸來神宮に参拝・・・・」

また別の頁には「ナンジ、イエスキリス、イロヒトヘ、ヨウゲンシ、テンコクノ、カミヤマト、ジュウイチダイ、スミラミコト、ソクイ・・・」とあり、これを見るに自分を汝(ナンジ)と呼ぶのはおかしく、そのような例があるのか調べたが分からなかった。ナンジではなくワレなら意味が通じるが、もしかしたらイエス本人の書いたものではなくて、イエスの行跡を神事で奏上する文章であるのかもしれない。

竹内家の口伝では、イエスは東北から北海道に渡り、北と南のアメリカを巡り、最後は南極に向かっているが、山根菊子は「此の地図によって見ると、ユダヤを出でた後北欧を廻り、南下してアフリカに到り、アフリカを廻って中央アジアより支那シベリアを通って対岸のアラスカに渡り、南北米を一周して再びアラスカに戻り、日本青森県のヤレコ松ケ崎に来たって上陸した事になっている」

共にイエスがアメリカに渡ったことを伝えており、また竹内家の口伝ではイエスの本名が伝わっていることも興味深い。

初出:2016年6月8日 
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