続・大日本仁志會

西勝造 が創始した西式(西学)を紹介する、正統西式のブログです。

2019年03月

天照大神は太陽神である、というのは異端の学説だった

異端の説が通説に ・・敗戦占領下の時代の「伊勢神宮」の秘話・・

神宮(伊勢神宮のこと)は天皇家の霊廟(先祖の霊を祭った宮のこと)であるが、

『「二十年の十二月ごろでしたか。中央からマッカーサー司令部が天皇制と神宮を廃止する考えでいるようだ、と情報が入ってきました。それから、にぎりめしを持ち、窓からしか出入りのできないような汽車に乗って、東京へ何度も情報収集に出かけました。「大東亜戦争は日本の狂信的な神道思想によって起こされた。その源泉は伊勢神宮だ。神風特攻隊はその分子なのだ、と彼らは考えていた。当時の私どもの心鏡は、今日つぶされるか明日つぶされるか。生きた心地はしませんでした。
三ヵ月ぐらいは不眠不休でした。肇国以来のことですからね。指令一本で何でもやられてしまう。この不安は、当事者でなくっちや、とてもわからないですよ。」

ここで語っているのは当時、神宮官房主事で、渉外も兼ねていた杉谷房雄(77歳)。この取材を受けた時は、夫婦岩で名高い二見浦の二見興玉神社の宮司。

「しあわせなことに、司令部の宗教課長であったバンスが、個人としては非常にゼントルマンだった。神宮が廃止されなかったのは、宗教法人になったからだ、とあとでバンスはいっています。」

「天皇さまが人間宣言をされても、天照大神が天皇の祖先であるというのはおもしろくない。これを世界普遍的な太陽信仰にかえろというのですね。よろしい。マッカーサー司令部の命令により、以後、天照大神は太陽神である、ということにしましょう。そういってやった。」

「そしたら、そりゃ困る。神宮自体の考えで教義をあらためろ、と司令部はいう。そんなこと、できっこないじゃないか。日本の古典からいっても国民感情からいっても、ね。第一、司令部自身が宗教干渉したことになってしまうじゃないか」

「司令部の政策が百八十度転換したのは朝鮮戦争からだった。もうつぶすことはないと思った。占領が解除されたときには、やれやれと思って腰が抜けましたよ」

「天照大神は太陽神である、というのは異端の学説だったが、これも通説になっちゃった。変わりましたなあ。」

神宮側の杉谷さんが、このようにさりげなくいえるほど、お伊勢さんは今ではすっかり繁盛し、磐石であり、大らかなものである。』

「新風土記 2」(1974年 朝日新聞社)

太陽神界におられる女神様は、天照大霊女貴之神(あまてらすおおひるめむちのかみ)様。他に男神様もおられる。
太陽神界のパワーは「十言のかじり」を唱えれば受け取ることができる。
太陽がこの惑星の生命を育んできた。

初出 2014/03/07

古(いにしえ)の都テーベ (1)

エジプトは私にとって思い出がいっぱい詰まった場所で、その一つを「ナイル川の河童」と題して以前に書きました。何故エジプトに旅したかといえば、古都テーベへ行ってみたかったのです。

高校1年の時にドイツの小説家ヘルマン・ヘッセの作品に夢中になりました。
授業で「車輪の下」の読書感想文の提出が宿題として出されたのが、彼を知ったきっかけであったように覚えています。
「シッダールタ(内面への道」「ナルチスとゴルトムント(知と愛)」
この2冊が特に好きでした。訳者は高橋健二で彼の訳するヘッセの詩も好きで、その中でたびたび出てくるのが古(いにしえ)の都テーベでした。
ヘッセのテーベへの郷愁がいつしか私のものになっていました。

テーベ は、古代エジプトにあった都市の遺跡として今日に残っています。
1979年に『古代都市テーベとその墓地遺跡』が世界遺産に登録されました。

カイロの南方約500km,ナイル川中流の両岸にまたがり、現在のルクソールにあたります。中王国時代の第11王朝〜新王国時代の第18王朝までテーベはエジプトの首都として栄華を誇りました。

古代エジプトとは紀元前3150年頃?に成立した第1王朝から紀元前332年のアレクサンドロス大王の征服までの期間をいいます。

ルクソールの遺跡群は数百ありますが、ナイル川東岸の神殿群、西岸の山中にある墓所群、同じく西岸の山と川に挟まれた葬祭殿をはじめとする遺跡群の3つに大きく分けることができます。
ナイル川東側には『カルナク神殿』や『ルクソール神殿』。 西側には「死者の都」には、王家の谷、王妃の谷と呼ばれるネクロポリス(墓所)、ツタンカーメンなどの王墓群、ハトシェプスト女王の葬祭殿、メムノンの巨像などがあります。

墓所や葬祭殿がすべてナイル川の西岸にあるのは、日が沈む西側が死者の街=ネクロポリスであると考えられていたからとされ、一方、生きている人々に幸いをもたらす神殿は東岸に建築されたと解釈されています。

カイロから飛行機で30分〜1時間。列車で10時間。バスもあります。
私は列車での移動でしたが、車中で飲み物と土産品の売り子の若者との会話を楽しんだことも忘れられない思い出です。彼が日本語を教えてくれと言うので、アラビア語と英語を混ぜながら日本のことを話しました。
若き日のアラビア語の勉強への情熱を思い返すと、過去生で砂漠の地で送った人生があったのかもしれません。

紀元前5000年頃から人々が定住し農耕を始めたのが黎明期です。
紀元前3150年頃?に、上エジプト(ナイル川上流域)と下エジプト(ナイル川下流域)を統一したとされている王朝を第1王朝(紀元前3150年頃?ー 紀元前2890年頃?)と名付け、以後第30王朝(紀元前380年ー紀元前343年)まで31の王朝が存在しました。

第31王朝は第30王朝を滅ぼしたペルシャの第2アケメネス朝(紀元前343年−紀元前332年)で、アレクサンドロス大王(アレクサンダー大王)がペルシャ帝国を滅ぼしたので終わります。

初期王朝   第1−第2
古王国時代  第3−第6
第1中間期  第7−第10 
中王国時代  第11−第12
第2中間期  第13−第17
新王国時代 第18−第20
第3中間期  第21−第26
末期王朝時代 第27−第31

ヘロドトスによる記録ではエジプト人の最初の王は「ミン」、マネトは「メニ」を最初の王とします。彼以前の王達は支配する範囲が限られていたのですが、彼は上下エジプトを統一したとされます。

紀元前332年のアレクサンドロス大王の征服後に成立したのがプトレマイオス朝です。プトレマイオス朝の最後の女王が、あの有名なクレオパトラです。

通常エジプト第3王朝からエジプト第6王朝までの時代を古王国と呼んでいます。古王国時代(紀元前2686年頃 - 紀元前2185年前後)の中心地は現在のカイロの近くのメンフィスで、その周辺にピラミッドが盛んに造られました。

古王国は今から4200年ほど前、謎の崩壊を遂げ暗黒時代が150年は続いたと見られます。現在では劇的な気候の変化があったことが分かっています。この気候変動はエジプトやメソ ポタミアだけでなく、トルコ・パレスチナからギリシャまで及んでおり。アッカド帝国も同じ年代に崩壊しています。

次に中王国ですが、第6王朝の崩壊以後の混乱時代を経て第9王朝、第10王朝になってエジプト全域に勢力を拡大していきますが、南部の都市テーベの州侯が自立して建てた政権の第11王朝がこれを倒し(紀元前2040年頃)、エジプトが再び統一されることになりました。この中王国は、第11、12王朝と約250年ほど続きます。

中王国時代(紀元前2000〜紀元前1800年前後)や新王国時代(紀元前1600〜紀元前1000年前後)の中心地はカイロから南へ約500km離れたテーベに移ります。

このテーベは旧石器時代から栄えていた場所で、紀元前3000〜4000年からセペトと呼ばれる都市国家のひとつとなり、アメン神がこの地方の守護神でした。紀元前2,000年、中王国第11王朝で首都になると、アメン神は太陽神ラーと一体化して「アメン=ラー」となります。

中王国はシリア方面から侵入してきた、謎の多い遊牧民ヒクソスによって混乱し、衰退します。第12王朝の終わりまでが中王国の時代ですが、第13王朝や第14王朝を中王国時代に分類する考え方もあります。

ヒクソスは、下エジプト(ナイル川三角州地帯)に第15王朝を建てます。これは第16王朝まで続きます。
その支配がどのようなものであったかはよく分かっていません。ヒクソスの直接支配はエジプト全域には及んでいなかったと見られています。

上エジプトのテーベを支配していた王朝が後に第17王朝となるのですが、最初はヒクソスの王朝に従っていたようですが、同時代史料がほとんど残っていないためあまりよくわかっていません。しかし、やがて異民族追放を大義名分として反乱を起こし、ヒクソスを滅ぼして、エジプトを統一しました。その勝利はアメンのご加護によるものだとされました。

エジプト第17王朝はエジプト統一を成し遂げたイアフメス1世以降は第18王朝とするのが慣例となっています。
しかし実際は完全に続いているので同一の王朝です。
エジプト第17王朝(紀元前1663年頃 - 紀元前1570年)
エジプト第18王朝(紀元前1570年頃 - 紀元前1293年頃)

ヒクソスを滅ぼしたエジプトに、新しく新王国時代(紀元前1567〜紀元前1085)がはじまります。第18・第19・第20王朝です。首都は中王国時代と同じくテーベです。

テーベの最盛期は新王国が築かれて以来の約500年間で、遺跡の多くがこの時期に造られました。

その後、モーセの出エジプトやいろんなことがありますが、エジプト王朝の最後の王は有名なクレオパトラ7世とその息子カエサリオンです。(プトレマイオス朝は男女の共同統治体制でした)

クレオパトラは強大なローマ共和国からエジプト王国を守るために、カエサル(シーザー)をたらしこみ、次にアントニウスを落とします。しかしカエサルは暗殺され、アントニウスは自殺、クレオパトラも乳首を毒蛇に噛ませて自殺します。そしてついにエジプト王朝は消滅しました。

以後エジプトは共和国から帝国となったローマ帝国の属州となり、東西ローマ分裂時には東ローマ帝国領となり、7世紀以降はイスラム圏となって、イギリス支配を経て今日に至ります。

七福神の精神を体得する・・・私見西式199

『西は最初、西式を権田直助が復興を試みた日本医学の継承発展完成されたものとして発表したかったが、海外の文献をあげて説いたほうが良いだろうというアドバイスを入れて、海外文献を使用して説いていた。
しかし西式は東洋の哲学を根幹として生まれたものである。
西は古今東西123名の思想家、哲学者の哲理を研究し、東洋では24名を挙げ 「以上は時代の順序で並べたが、結局私の説かんとすることは、これより申し上げる二十四名の東洋の哲学者のもので、これ等の哲学より西式は颯爽として出来たのである。今後かういうような意味合いで申し上げたいと思っている。結局一番偉いものは何処へ行ったか。老子の無為の哲学を最高とし、之が真空哲学になる。(中略)老子の無の哲学即ち真空哲学が分かれば、又病気しないことになる」(西式医術 第41号 昭和13年)、2010年06月23日 私見西式32

そして西はこの123名の思想・哲学を引っくるめると、「七福神」に要約されると説いた
西の七福神の解釈は稿を改めるが、例えば恵美須天は清廉寡欲(清廉)で、人は先ず寡欲でなければならぬ。欲一点張りではいけない、等と説いており、一般的な解釈とは少し違っている』

『次に七福神の精神である。七福神は古来、陽気な縁起のよいものとして、大衆に親しまれている。
しかし七福神の真の精神を理解している人は、極めて少ないのに驚かされる。わたくしは七福神の精神を体得することは、暗々裏に精神を明るくし、やがて健康増進に役立つものと信じている。しかも七福神の神仙が、印度生まれ、支那生まれ、これに日本生まれの三人種からなる一群であることなども興味ある事柄である。

一、恵比寿「守るべきを守り惟(こ)れ信、惟れ義たれ」
二、大黒「足るを知り、諸事質素倹約たれ」
三、毘沙門「自彊不息の精神もて勇猛努力せよ」
四、辨天「慈善博愛を以て人に接するを忘るる勿(なか)れ」
五、布袋「度量を大にして妄(みだ)りに怒ること勿れ」
六、福禄「向上発展の思想を以て事毎に當たれ」
七、寿老人「西式を導守して心身の健康を計(はか)れ」』
「西醫學健康法」(昭和22年刊)より

少し語句の解説しよう。
七福神は、えびす、だいこく、びしゃもん、べんてん、ほてい、ふくろく、じゅろうじん。

「惟(こ)れ信、惟れ義たれ」の「惟(こ)れ」は、 ただ〜だけ、ひたすらそのことだけ。
信も義も儒教における五常(仁義礼智信)の徳目であり、
信は、友情に厚く、人をあざむかないこと、誠実なことをいう。
義は、人として守るべき正しい道。『大辞林』では「人のおこないが道徳・倫理にかなっていること」とある。

そして西は、ここでは恵比寿を「守るべきを守り惟(こ)れ信、惟れ義たれ」と説明するが、他で「恵美須天は清廉寡欲(清廉)で、人は先ず寡欲でなければならぬ。欲一点張りではいけない」とも説いている。
寡欲(かよく)とは、欲が少ないこと。清廉(せいれん)とは、心が清らかで私欲がなく、後ろ暗いところのないこと。

信も義も清廉寡欲でない人には貫き通せない、という意味であろうと、私は解釈している。
孟子は「心を養うは寡欲より善きはなし」と言っている。

自彊不息(じきょうやまず、じきょうふそく)の精神は多くの学校の校訓などに取り入れられている。
易曰,天行健。君子以自彊不息。
(易に曰く,天行健なり。君子は もって自ら彊(つと)めて息(や)まず。)
易経の言葉。天地の運行がすこやかであるように,君子も自ら努め励み,怠ることはない。

「度量」は、 他人の言行をよく受けいれる、広くおおらかな心。
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