続・大日本仁志會

西勝造 が創始した西式(西学)を紹介する、正統西式のブログです。

2020年05月

わが人生の回想録 10−4 エジプトの思い出

かってこの国が、世界有数の奴隷輸出国だったことについて、太田龍が取り上げていたとは知らなかった。竹中労、平岡正明、太田竜(後に龍)は60年代左翼イデオローグの3バカと呼ばれたが、「世界革命浪人」を自称していたドラゴン将軍こと太田竜は、マルクス主義→アイヌ解放論→エコロジー思想→反ユダヤ・反米主義と、思想・哲学を深化させていき、晩年は爬虫類人の存在まで思想に取り込み、2009年に78歳で死ぬまで玄米を食べながら歴史の真実を探求し続けた異色の思想家だった。

平岡正明は極真空手の世界に入っていった。彼がソノシートに吹き込んだ「俺より他に神はなし」は、私がエジプトのピラミッドの周辺で野宿を図った頃のテーマ・ソングだった。
あれは酷い歌だった。もう忘れてしまったが、うろ覚えで

 花はひとりでぇー 散りゃーしぃねえー
 花を散らぁーせる 奴がぁーいーる
 どうせこの世は 駆け引きでー  
 正義が勝つとは 限らねえ  
 舌先三寸世渡りで
 悪は正義にかわるもの
 どうせ一度の人生ならば
 咲いて散らない 悪の花
 咲かせてみせましょう この腕でぇー
 人が泣こうが くたばろがぁー
 俺がよければ すべてよし
 俺よりぃー他にぃー 神はーなぁしー
 
 ナイル川の畔で、こんな歌を歌って、エジプトの神々の怒りを買ったのかもしれんなぁ・・。
そうだ、俺が貧乏になったのはそれが原因だ、とバカなことを書きつつ、もう一度エジプトに行きたいと思う。

わが人生の回想録 10−3 エジプトの思い出

Ancient Egyptian Music - Pharaoh Ramses II ←クリック を聞きながら♪

エジプトは私にとって思い出がいっぱい詰まった場所で、その一つを「ナイル川の河童」と題して以前に書きました。何故エジプトに旅したかといえば、古都テーベへ行ってみたかったのです。

高校1年の時にドイツの小説家ヘルマン・ヘッセの作品に夢中になりました。
授業で「車輪の下」の読書感想文の提出が宿題として出されたのが、彼を知ったきっかけであったように覚えています。
「シッダールタ(内面への道」「ナルチスとゴルトムント(知と愛)」
この2冊が特に好きでした。訳者は高橋健二で彼の訳するヘッセの詩も好きで、その中でたびたび出てくるのが古(いにしえ)の都テーベでした。
ヘッセのテーベへの郷愁がいつしか私のものになっていました。

テーベ は、古代エジプトにあった都市の遺跡として今日に残っています。
1979年に『古代都市テーベとその墓地遺跡』が世界遺産に登録されました。

カイロの南方約500km,ナイル川中流の両岸にまたがり、現在のルクソールにあたります。中王国時代の第11王朝〜新王国時代の第18王朝までテーベはエジプトの首都として栄華を誇りました。

古代エジプトとは紀元前3150年頃?に成立した第1王朝から紀元前332年のアレクサンドロス大王の征服までの期間をいいます。

ルクソールの遺跡群は数百ありますが、ナイル川東岸の神殿群、西岸の山中にある墓所群、同じく西岸の山と川に挟まれた葬祭殿をはじめとする遺跡群の3つに大きく分けることができます。
ナイル川東側には『カルナク神殿』や『ルクソール神殿』。 西側には「死者の都」には、王家の谷、王妃の谷と呼ばれるネクロポリス(墓所)、ツタンカーメンなどの王墓群、ハトシェプスト女王の葬祭殿、メムノンの巨像などがあります。

墓所や葬祭殿がすべてナイル川の西岸にあるのは、日が沈む西側が死者の街=ネクロポリスであると考えられていたからとされ、一方、生きている人々に幸いをもたらす神殿は東岸に建築されたと解釈されています。

カイロから飛行機で30分〜1時間。列車で10時間。バスもあります。
私は列車での移動でしたが、車中で飲み物と土産品の売り子の若者との会話を楽しんだことも忘れられない思い出です。彼が日本語を教えてくれと言うので、アラビア語と英語を混ぜながら日本のことを話しました。
若き日のアラビア語の勉強への情熱を思い返すと、過去生で砂漠の地で送った人生があったのかもしれません。

紀元前5000年頃から人々が定住し農耕を始めたのが黎明期です。
紀元前3150年頃?に、上エジプト(ナイル川上流域)と下エジプト(ナイル川下流域)を統一したとされている王朝を第1王朝(紀元前3150年頃?ー 紀元前2890年頃?)と名付け、以後第30王朝(紀元前380年ー紀元前343年)まで31の王朝が存在しました。

第31王朝は第30王朝を滅ぼしたペルシャの第2アケメネス朝(紀元前343年−紀元前332年)で、アレクサンドロス大王(アレクサンダー大王)がペルシャ帝国を滅ぼしたので終わります。

初期王朝   第1−第2
古王国時代  第3−第6
第1中間期  第7−第10 
中王国時代  第11−第12
第2中間期  第13−第17
新王国時代 第18−第20
第3中間期  第21−第26
末期王朝時代 第27−第31

ヘロドトスによる記録ではエジプト人の最初の王は「ミン」、マネトは「メニ」を最初の王とします。彼以前の王達は支配する範囲が限られていたのですが、彼は上下エジプトを統一したとされます。

紀元前332年のアレクサンドロス大王の征服後に成立したのがプトレマイオス朝です。プトレマイオス朝の最後の女王が、あの有名なクレオパトラです。

通常エジプト第3王朝からエジプト第6王朝までの時代を古王国と呼んでいます。古王国時代(紀元前2686年頃 - 紀元前2185年前後)の中心地は現在のカイロの近くのメンフィスで、その周辺にピラミッドが盛んに造られました。

古王国は今から4200年ほど前、謎の崩壊を遂げ暗黒時代が150年は続いたと見られます。現在では劇的な気候の変化があったことが分かっています。この気候変動はエジプトやメソ ポタミアだけでなく、トルコ・パレスチナからギリシャまで及んでおり。アッカド帝国も同じ年代に崩壊しています。

次に中王国ですが、第6王朝の崩壊以後の混乱時代を経て第9王朝、第10王朝になってエジプト全域に勢力を拡大していきますが、南部の都市テーベの州侯が自立して建てた政権の第11王朝がこれを倒し(紀元前2040年頃)、エジプトが再び統一されることになりました。この中王国は、第11、12王朝と約250年ほど続きます。

中王国時代(紀元前2000〜紀元前1800年前後)や新王国時代(紀元前1600〜紀元前1000年前後)の中心地はカイロから南へ約500km離れたテーベに移ります。

このテーベは旧石器時代から栄えていた場所で、紀元前3000〜4000年からセペトと呼ばれる都市国家のひとつとなり、アメン神がこの地方の守護神でした。紀元前2,000年、中王国第11王朝で首都になると、アメン神は太陽神ラーと一体化して「アメン=ラー」となります。

中王国はシリア方面から侵入してきた、謎の多い遊牧民ヒクソスによって混乱し、衰退します。第12王朝の終わりまでが中王国の時代ですが、第13王朝や第14王朝を中王国時代に分類する考え方もあります。

ヒクソスは、下エジプト(ナイル川三角州地帯)に第15王朝を建てます。これは第16王朝まで続きます。
その支配がどのようなものであったかはよく分かっていません。ヒクソスの直接支配はエジプト全域には及んでいなかったと見られています。

上エジプトのテーベを支配していた王朝が後に第17王朝となるのですが、最初はヒクソスの王朝に従っていたようですが、同時代史料がほとんど残っていないためあまりよくわかっていません。しかし、やがて異民族追放を大義名分として反乱を起こし、ヒクソスを滅ぼして、エジプトを統一しました。その勝利はアメンのご加護によるものだとされました。

エジプト第17王朝はエジプト統一を成し遂げたイアフメス1世以降は第18王朝とするのが慣例となっています。
しかし実際は完全に続いているので同一の王朝です。
エジプト第17王朝(紀元前1663年頃 - 紀元前1570年)
エジプト第18王朝(紀元前1570年頃 - 紀元前1293年頃)

ヒクソスを滅ぼしたエジプトに、新しく新王国時代(紀元前1567〜紀元前1085)がはじまります。第18・第19・第20王朝です。首都は中王国時代と同じくテーベです。

テーベの最盛期は新王国が築かれて以来の約500年間で、遺跡の多くがこの時期に造られました。

その後、モーセの出エジプトやいろんなことがありますが、エジプト王朝の最後の王は有名なクレオパトラ7世とその息子カエサリオンです。(プトレマイオス朝は男女の共同統治体制でした)

クレオパトラは強大なローマ共和国からエジプト王国を守るために、カエサル(シーザー)をたらしこみ、次にアントニウスを落とします。しかしカエサルは暗殺され、アントニウスは自殺、クレオパトラも乳首を毒蛇に噛ませて自殺します。そしてついにエジプト王朝は消滅しました。

以後エジプトは共和国から帝国となったローマ帝国の属州となり、東西ローマ分裂時には東ローマ帝国領となり、7世紀以降はイスラム圏となって、イギリス支配を経て今日に至ります。

わが人生の回想録 10−2 エジプトの思い出

島谷ひとみ 「赤い砂漠の伝説」←クリック を聞きながら♪

小田急鶴間駅近くのBOOK OFFで、
「3日でおぼえるアラビア語」(小池百合子著 学生社)を見つけ、
懐かしさのあまり「あっ」と声が出てしまった。
奥付を見ると1983年の初版だ、昭和58年かぁ・・・。

遠い遠い記憶がよみがえる。
新聞の書評で読んだカイロ大学卒業の記念にクフ王のピラミッドに登り、
頂上で着物に着替えてお茶を立てた、という女性の著書に興味を覚え、
本を買いに行って、同じ著者のこの本も買ったのだった。
なお、彼女は現在東京都知事である。

アラビア語の勉強を始めたきっかけとなり、
後年、エジプトに旅するきっかけともなった思い出の本だ。
まだ持ってるはずで書庫を探せば出てくるが、手にしてレジへ向かった。

カイロのヒルトン・ホテルのロビーだった。

突然、数人のアラビア人に囲まれた。
濃い髭面の男がアラビア語で私に話しかけた。

「お前ほど我々の民族衣装の似合う外国人は見たことがない。一緒にお茶を飲まないか」

私は現地人の姿だった。

私の聞き取れないアラビア語は、別の男が英語で通訳してくれた。

席について私は言った。

「イスミ ヤバーニ ベトウィン」
(俺は日本の砂漠の民だ)

「日本に砂漠があるのか?」

「ある」

日本の都会は砂漠という詩的解釈だ。
これで次の話に移るかと思いきや

髭面が目で合図し、細身の男がバッグから地図を出して広げた。

「どこだ」

まさか地図を持ち歩いているとは・・
世界地図だが、彼らは日本の場所を知っていた。

私は指で差した。

「ここだ、鳥取県だ」

細身の男が髭面に、砂漠があるのかと聞かれて、答えた

「あります」

えーっ、日本に行ったことあるんだ、彼は。

「何だったか、果物を栽培していた」

「砂漠で果物が作れるのか」

「それは、梨」と私

髭面は釈然としない顔つきだ。
日本=砂漠=梨の栽培。。イメージがつかめないようだった。

早く、この話題から逃げるしかない(^O^)。
俺は鳥取には一度しか行ったことが無い。

思い出すものだなぁ・・いや、思い出すのではない

今 私はあの現場にいた。

初出:2012年10月13日

わが人生の回想録 10‥エジプトでの思い出

諫山実生 - サハラの誘惑 ←クリック を聞きながら♪

ナイル川に河童(かっぱ)がいたという伝承はない。
だが、私はカイロで足音のような音を聞いた。

クフ王のピラミッドは内部に入ると「王の玄室」と名付けられた部屋があり、
発掘当時から中に何も入っていなかった石棺がある。
石棺のサイズは長さ1m98cm、幅68cm、深さ87cm。

私はその石棺に入って座り、印を組み瞑想した。(注:真似すると拘束されますw) 
ピラミッドの中にいた何かが私に憑依して、そのような瞑想いや迷走をさせたとでも言っておこう。

周りの音が消え、静寂が私を包む。
やがて神々の声が
いや違う、パシャ、パシャという音が聞こえた。
もしかして、ナイル川の河童の霊( ゜Θ゜)がやって来た・・?

静かに目を開けると、外人の女性が私にカメラを向けシャッターを切っていた。

わが人生の回想録 9‥マカオで拉致される危機

香港から高速ジェット・フェリーでマカオに向かう。
香港のガイドはついて来ない。
マカオに別のガイドが待っているという。
私は状況がよくわからないままマカオに奇妙な形で入国をさせられ、香港からマカオ行きのジェット・フェリーに乗った以降の足取り不明のまま、巧妙な手口で某国へ拉致されるところだったのかもしれないという危険な体験をした。
帰国後旅行代理店の所長に体験を話したが聞いたことのない事例ですと首を傾げていた。

過去にどこかで書いたので記事を探してみる。
‥書きかけ・・

我が人生の回想録 8‥初めての海外旅行/香港

私が初めて海外に旅したのは29歳の時だった。
香港・マカオ5日間のパックツアーを申し込んだ。
成田空港で集合場所のカウンターでチケットを受け取った時には男が5〜6人いた。
香港の啓徳空港に現地ガイドが迎えに来るから、目印に必ずつけておいてくださいと、
バッジを渡された。

入国審査を終えロビーに出ると、待機しているグループはどこにもいない。
不審に思っている内にほとんど人がいなくなった。
一人の中国人が近づき、〇〇サンデスカ?
「いや、違います」

私の名前ではなかった。
男は去って行き、やがてロビーには誰もいなくなった。
途方に暮れるとはこのことだ。

再び男がやって来て、アナタ、〇〇サンニマチガイナイ、バッジ ツケテイル。
だが名前が違う。
彼が手にしていた書類を見ると、ローマ字表記の私の名前が、姓が間違っているが
下の名前は一致していた。 

私の初めての海外旅行は、このようなトラブルと共に始まった。
だが、そのおかげで
行動が慎重になり
マカオで拉致され某国へ運ばれたかもしれない危機をまぬかれた

私は男の運転するベンツに乗ってホテルへ向かった。

この時点では
入国ゲートをくぐるのが遅くて
一人、置いてけぼりになった私を
彼が迎えに来たと思っていた。

他の人はバスに乗ってホテルに行ったと。

ホテルは空港から15分位のはずなのに
ベンツは走り続け30分を超えた。

えっ、もしかして誘拐?

私は覚えていたホテルの名前を出して彼に確認した。

イマノジキ、ソノホテル、ヨヤクトレナイ、

これが返事で、
その後、彼と激しく言い合った。

ツアーデナイ、アナタヒトリヨ。

はぁ?
何がどうなっているのだ?

彼は車内に備え付けの電話で
会社へ(多分)電話した。

広東語なので何を言っているのか
全くわからないが、長い時間話していた。

電話を切って

アナタ、プラザホテル、マチガイナイ

ホテルに着いて
ロビーで

コレ、チョウショクノ クーポンケン
レストラン、アソコ
ワタシ、モウヨウジ ナイ、カエル

私が呼び止めるのを無視して
彼はホテルを出て行った。

パック・ツアーには最低催行人数がある。
申込者が少なくて、中止になるのを
旅行代理店が、勝手に個人旅行に切り替えたのだった。

私に一言の断りもなく、現地の代理店にも説明していなかった。

私の申し込んだパック・ツアーでは
・海鮮バイキングの昼食
・マカオ一日観光
が含まれているが、彼は聞いていない

というひどい状況だったが
ガイドは悪い性格ではなかったので救われた。

翌日は半日市内観光で、ベンツに私を乗せて各所を回りながら

オヒル、ナニカ、タベマスカ?

いや、今日は海鮮バイキングでしょ。

オカネ、○○ドルデス。

お金は日本で払っている。

彼はベンツを停め、また広東語の長電話。
そんな感じで、私は不機嫌で無口だった。

車内の雰囲気を和らげようとしたのか
彼は私に質問した。

ホンコンニモ、カイスイヨクジョウ、アリマス。
ミズギキテル オンナノヒト
ニホンジン ト チュウゴクジン
クベツ ツキマス
ナゼデスカ?

日本ではハイレグの水着が流行しているけど・・
水着が日本の女は大胆なのを着てるとか

チガイマス
ニホンノオンナノヒト
ワキノシタノケ ソッテマス
チュウゴクジン ソラナイ

ふーん、そうなんだ。
(本当は驚くところかもしれないが、それどころじゃないんだ、この先、俺は一人でどうするんだ!)

私の反応が弱いので

ニホンジン
「ハイ、ドウモ」
ト ヨクイウ

カントンゴデハ
アソコ ケブカイ ノ イミデス

オンナノガイド コマリマス

これには不覚にも笑ってしまった。

わが人生の回想録 7‥北海道、東日本はソ連領?

Nataliya Gudziy( ナターシャ・グジー)の歌う「君が代」←クリック を聞きながら♪

日本に原爆が落とされ、降伏した後、突如ソ連は日本を占領する為に侵攻してきた。
大日本帝国の兵士はダイナマイトを抱えて戦車の下に身を投げ、マッチで火をつけ自分もろとも次々と戦車を爆破させた。大日本帝国は降伏したが敵が攻めてきた以上、戦うのは当然であり、人間としての権利だ。
  
日本が福島あたりまでソ連に占領され、日本が分断され、現在の朝鮮半島のようになるのを阻止した彼らの活躍と犠牲は戦後の日本国から評価されることはなかった。

https://youtu.be/4caq5e_toz8

(書きかけ)

わが人生の回想録  6‥ハワイ 真珠湾の記念館

美空ひばり「同期の桜」←クリック を聞きながら♪ 

ハワイには長いこと行っていないので、現在はどうなっているかわからない。
以下は2014年にupした記事の再録である。

Livedoor NEWS トピックニュース 2014年06月16日07時00分
「青山繁晴氏、日本に蔓延する敗戦後の刷り込みを中韓が標的にしていると指摘」

11日放送の「スーパーニュースアンカー」(関西テレビ)で、独立総合研究所社長・作家の青山繁晴氏が日本人の「敗戦後の刷り込み」を中国や韓国がアンフェアに利用しようしていると警鐘を鳴らした。

青山氏は冒頭で「敗戦後の刷り込み」について敗戦後の教育とマスメディアによって間違ったことを思い込まされてきたのではないかと定義する。氏の言う「刷り込み」とは、旧日本軍の「軍国主義」「侵略主義」を指しているようだ。

この刷り込みを説明するキーワードとして21,000人の死者を出した硫黄島をまず取り上げた。硫黄島の極めて悪い環境化で戦った旧日本軍の兵士のほとんどが、サラリーマンだったり普通の職業だった人たちだったと説明する。

そして硫黄島の上陸作戦に苦戦したアメリカだが、戦後は、亡くなった兵士は我々と同じ祖国を守るために戦った立派な人だとして毎年行われる合同慰霊祭に参列しているという。
この合同慰霊祭だがアメリカの遺族は国費で出席するが、日本の遺族やボランティアは自費で出席していると日本とアメリカの違いを指摘した。

青山氏は次にハワイの真珠湾にある「真珠湾の記念館」について触れた。

この記念館は日本が卑怯だと非難したものではなく、「当時の海軍力において日本が最先端でアメリカより上で、特に大きな軍艦じゃなくて飛行機こそ大事だということを教えてくれた」という内容の展示がしてあると説明。

そして、「真珠湾で徹底的にやられたので、アメリカは日本の方が正しいと反省をして、航空戦力を強くして翌年の1942年6月のミッドウェイ海戦でやり返して祖国を守ったという非常にフェアな展示がしてある」と続けた。

ところがその記念館が改装となった際、青山氏は中韓が「展示の内容を変えろ」と沢山のお金を使って工作しているとの噂を聞きつけ、心配になって真珠湾の記念館に足を運んでみたという。

まず、心配していたのが空母「赤城」の模型展示だが、これは撤去されることはなくそのまま展示してあったようだ。続いて赤城について青山氏は戦艦大和に比べると赤城は知名度が低いが、アメリカでは赤城こそが最先端の考えで巨大戦艦アリゾナは旧式の考え方だったと記されているという。

展示されている模型には赤城の乗組員の表情やパイロットの表情まで作りこんであるが、それは敵に対する憎しみをこめられたのではなく、尊敬と愛情が感じられるものだと説明する。
さらに、中国や韓国の記念館ならこんな表情で作られることはなく、日本人は悪魔のような表情で作れていると付け加えた。

続いて、記念館に入って一番すぐの展示「A Gathering Strom」(迫り来る嵐)と題されたパネルには、日本とアメリカの立場が対等に記され、日本は侵略主義や軍国主義であるとは一切書いてないと語った。

しかし、日本では旧日本軍は軍国主義的な負のイメージで描かれるが、アメリカは日本に対して尊敬を持っていると説明した。

最後に青山氏は、中韓が反日工作に利用しているのは、「日本は悪者だった」という敗戦後の日本人の思い込みだとまとめた。

真珠湾の記念館には工作の痕跡はなかったが、「かつての日本は軍国主義で悪かったのだ」いう思い込みが、中韓に利用されかねないことに警鐘を鳴らした。

2014年8月4日「真珠湾の記念館」の再録

わが人生の回想録 3・・原爆秘話

Suaraの キミガタメ ←クリック を聞きながら♪

当時、世界の誰が、昭和天皇以上に原爆の脅威を理解できていただろうか。
「終戦の詔書」において天皇は原爆を「残虐ナル爆弾」と表現し、
「我民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラズ、」
続けて
「ヒイテ人類ノ文明ヲモ破却スベシ」
と断じている。

日本は終戦まで、アメリカに何度も何度も和平提案を送っていた。
それを完全に無視し続けた上での原爆投下は日本民族皆殺しの強い意志を感じる。

情報の信頼度は不明だが、次のような話がある。

ナチス・ドイツは原爆を製造したが、ヒトラーは軍のリバプールとロンドンへの原爆投下の計画を禁止し、原爆を使用しなかった。
秘密裏に米国に運ばれたウラン型ナチス製原爆が、1945年8月6日日本に落とされた。

また別の情報では、日本は原爆製造可能の技術水準に達していながら、
製造と使用を 天皇が禁止したという。
「数カ国がその新兵器開発を競っているとのことだが、日本が最初に完成し使用すれば、他国も全力を傾注して完成させ使ってくるようになるであろうから、全人類を滅亡させることになる。
それでは、人類絶滅の悪の宗家に日本がなるではないか。またハワイに投下する計画とのことだが、ハワイには、日本の同胞が多数移住し、現地民とともに苦労し今日を築きあげたところである。
そのような場所に新兵器を使用することには賛成しかねる」

大東亜戦争末期、東条英機首相と杉山元参謀総長に対し、
昭和天皇は静かに、しかしきっぱりと告げた。
東条は天皇の決断に従い、原爆開発の停止を決心した。
しかし杉山は全責任を自分が被ることにして密かに開発を続けさせた。
だが事故が発生し天皇の知るところとなった。
「陛下は私を呼ばれ、まだやっていたのか!と強く諫められた。まことに面目ないことであり、それ以上続けることはできなくなった」

例え作り話であったにしても、
私は大日本帝国が原爆を使用しなかったことを誇りに思う。

日本が原爆開発を進めていたことには証言がある。
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